「はぁ?マニキュアが塗りたい?」
ごろごろとのんびりしていた久々の休日。
恋人が思いついたように言い出したことは、予想外のことだった。
【manicure】
除光液をたっぷりと染み込ませたコットンが、そっと爪の上を拭う。自分じゃあそこまで丁寧にしないから、冷たいしくすぐったいしで思わず手を引っ込めそうになる。
「ちょっとおチビ、動かないでよ」
「だってよーレン、くすぐったくて。つーかんな優しくやってたら落ちねぇし」
「うーん、そうみたいだね…頑固だな」
眉を寄せるレンは、不満そうに口元まできゅっとしていてかわいい。俺がソファに座ってるのに対してレンが床に膝をついてて、俺を見上げる形だから余計に、なんて。
頑固だと言いつつ、けれど強く擦りはしない。じんわりとコットンから除光液を滲み込ませ、ちょっとずつ、確実に落としていく。その顔がまたあまりにも真剣で吹き出しそうになっちまう。
あぁもう、いちいちかわいいんだから、こいつは。
「んーよし、このくらいかな」
「うえ、除光液の匂いきっつー」
「え、そう?オレこの香り結構好きだけど」
「うわお前、それ危ないやつだ。ガソリンの匂いとか好きだろ」
「まあ、あの香りも嫌いじゃないけど」
「ありゃ香りなんつーもんじゃねぇだろ!」
味覚がおかしいのは前々から知っていたけど、まさか嗅覚までおかしいなんて。ボンボンのくせしてなんでもありだなレンは。
呆れる俺を余所に、レンは綺麗にマニキュアのとれた俺の手を持ち上げてゆるゆると弄びながら観察をする。そしてすっかり落ちている爪に満足げに笑うと、ちゅっとその手先にキスをした。途端、俺がなにか言う前にレンはげぇっと顔をしかめた。
よかった、さすがにこの不味さはわかってくれるのか。って違ぇ!
「ばっかお前、除光液ついてんのにキスしたら不味いに決まってんだろ!」
「だっておチビちゃんの綺麗な爪って珍しいじゃない。また黒く塗られちゃう前にキスしたくって」
「…ったく!」
なんでこう、こいつはこんなにかわいいかな…!
拗ねたように突き出された唇にちゅっとキスを落とした。いつもと違って上から落とせる唇に満足してニッと笑う。
「お前がこのままでいてほしいって言うんなら塗らなくてもいいぜ」
「え、でもそれってポリシーなんだろう?」
「まあ、確かに芸能活動始めてからはとって人前に出たことはないけどな。でもそんなたいそうなポリシーとかじゃないから別に…」
「うーん…じゃあやっぱり塗ろう?オレ塗ってみたいし」
少し考えてからふっと微笑み、いそいそと黒いマニキュアを準備するレン。
なんだよ、よくわからねぇな…と首を傾げていると、レンはきゅっとその長い髪の毛をくくった。露になる綺麗なうなじ。真剣な横顔。乾いた唇をぺろりと舐める。
ちょ、おいおい、なんでそんな本気モードなんだよ?
「あのーレンさん?俺ちょっと不安なんだけど…?」
「なんで?大丈夫だよ、お兄さんに任せなさい」
「いやだから、それが心配なんだって!」
「うるさいな、ちょっとお口チャックだよおチビちゃん」
「っ、レン!」
ピッと唇に綺麗な指を当てられて思わず口を閉じたけど、よく考えなくとも要らない一言を言われてる。だからチビって言うなと怒鳴ろうとしたのに、やっぱりひどく楽しそうに笑うレンに文句は喉でつかえて出てこない。
そんな風に笑うなんて卑怯だ!あぁもう、どうにでもなれ…!
「ん、いい子だねおチビちゃん」
「おチビちゃん言うな!もういいからさっさと塗れよ!」
「アイアイサーッ」
鼻歌を歌っていい返事。くっそ、馬鹿にしやがって…!
むっとしてる俺の手を左手に、刷毛を右手にとったレンは、ふっと息を詰めて丁寧に塗り始めた。綺麗に黒く塗られていく爪とそれを見つめる真剣な横顔。それを見ながら内心苦笑する。
まったく、こいつはなにをそんなに真剣にやってんだか。
「へぇ…意外と上手いんだな」
「まあね。オレを誰だと思ってるの」
「だけど、んなマジになんなくたって…」
「そりゃ真剣にもなるさ。オレだけのものなんだから」
「は?」
片手を塗り終わったレンは、刷毛をマニキュアの中に戻してふーっと息を吐いた。開いた手で早く乾くようにパタパタと手を扇いでくれる。けれど意味深に笑むレンは、疑問の答えは焦らして簡単にはくれない。
いやだから、なんでそんな…?
「ほら、きちんと綺麗にカバーしなきゃね」
今度はまだ塗っていない手をとったレンが、また爪を塗り始める。無駄に真剣な顔は綺麗で眼福なんだけども。
「レン?」
「だって…翔はさ、作らないじゃない」
「うん?」
「かっこつけたりはするけど、翔はテレビでも、ライブでも、レディの前でもオフとあまり変わらなくて、そのまま、素のまんまの翔で」
塗り進めながら、レンがぽつぽつと言葉を紡ぐ。伏せた目、長い睫毛が目元に影を作る。
「でもそれでいいんだ。オレだってそんな表裏のない、自分を偽らない翔が好きだから」
「レン?」
「…だけど、たまにちょっとだけ、特別が欲しくなるんだよ。オレ限定の、オレだけの翔がね」
ちらっとこちらを窺って上目使いになったレンが、俺と目が合うと困ったように笑った。
言いたいこと、わかった気がする。
「だから、黒くなってない翔の指はオレのだよ。綺麗な指が見られるのはオレだけだからね」
すべての指を塗り終わったレンが、そう言って満足気に笑う。
うん、上出来、と手の甲にキスが落とされた。
「あぁもうっ…!」
そんな表情でそんな事言われて、我慢なんかできるわけがない。もう限界で、待ってなんかいられなくて、まだ乾いてない爪のまま、ガバッと抱きついた。
「うわっ!ちょ、マニキュアよれる!」
「んなこといい!ったくお前は…!」
慌てたように抵抗されるのを、ぎゅうっと抱き締めて離さない。今このタイミングで離してやれるほど俺は出来た男じゃないから。すると抵抗を諦めたのか、強ばっていたレンの体からふっと力が抜けるのがわかる。その代わり、ゆるりと腕が俺の背中へ回った。
「どうしたのいきなり」
「あーもう、馬鹿だなお前は…!」
「ちょっと、馬鹿だなんて心外だな。オレは真面目に、」
「馬鹿かわいい…なんなんだよもう、なんでそんなかわいいんだ」
「………そんなこと言うのはおチビちゃんくらいだよ」
腕を緩め、コツリと額と額をくっつける。
拗ねたようにムッと口を突き出すレンに自然と頬が緩んだ。
「なんだ、あるじゃん。お前だけの特別が」
「え?」
「レンをかわいいって言うのは、俺だけだろ?」
「っ、馬鹿じゃないの」
ニッと笑えば、絡んだ視線を逸らされた。
顔を離して額にキスを落とし、露になっている首筋にもキスをする。身動ぐレンの頭を押さえ、逃がさず捕まえたままその耳尻を柔く食んだ。さらにぎゅっと目を閉じたレンが背中にしがみついてくるのを感じながら、ちゅ、と音を立ててそこにキスを降らした。
「…確かに俺は、誰に対しても俺のままかもしれないけど」
「っしょ、耳やだ、」
「こんなことするのは、レンだけだよ」
「―――っ」
直接吹き込む囁き。
視界に入った自分の指は、生乾きで動いたせいでマニキュアが少しよれてしまっていて。
このかわいい恋人のためにも、自分のためにも、もう一度塗り直してもらおうか―――そう思って、少し笑った。
*end*
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