ただいまを言うこととおかえりを言ってもらうことが夢だった
カルトの一番古い記憶は両親ではない。
ククルーマウンテンに住まう獰猛かつ凶暴な大蛇から自分を庇い、首から夥しい血を吹き出しながら息絶える姉の姿。
それが、カルトが持つ最古の記憶であり姉と自分2人きりの秘密ごとだった。
姉が長兄に拷問されて死んだときもカルトは何も思わなかった。すぐに息を吹き返し何事もなかったかのように戻ってくるのだと信じていたからだ。
しかし姉は戻ってこなかった。
いつまでも、戻ってこなかった。
裏切られたのだと思っていた。
自分たちを、家族を捨てていった人でなしだと思っていた。
一方的に、理不尽にそう思い込まなければ自身の涙で窒息してしまいそうだった。
暗殺一家末弟、カルト=ゾルディックはそれだけ姉を想っていた。
『「やあカルト!」「なぁに、可愛いかっこしてるね!女のぼくより可愛いとか!喧嘩売ってるのか!」』
飲み込んだ涙で心を満たしつつ、いつかは戻ってきてくれると、信じ続けていた。
「ミソギ姉さま、ミソギ姉さま」
『「はいはいカルトどうしたの」』
「ミソギ姉さま、姉さま、お屋敷はこちらですよ」
『「いやいやさすがに覚えてるって」「景色ほとんど変わってないし」』
「ミソギ姉さま、姉さまが迷子にならないようにカルトと手を繋ぎましょう」
『「迷子にはならないけど手はつなぎたいなあ」』
「ミソギ姉さま、ミソギ姉さま、どうしてこちらに戻ってこられたのです?」
『「おかしなことを聞くねぇカルト」』
優しく自分を見下ろすその瞳は、濁りすぎた漆黒色。
『自分の家に帰ることに、理由なんて必要なの?』
待ち焦がれた姉は、血みどろの記憶と同じく笑っていた。
カルト以外の誰にも会うことなく屋敷にたどり着くと、ミソギは独房に足を向けた。
ミルキとの再会もそこそこに鋼鉄製の扉を静かにあける。
錆びついた不快な音が季節を問わず肌寒い独房の空気を震わせる。
体中に痛々しい鞭の跡を残し、鎖で宙づりにされながらも平然と眠る弟の姿がそこにあった。
カツ、と足音を鳴らせば猫のように大きな瞳が一瞬で開く。
青みががかったミソギの瞳と視線が合うとこぼれそうなほど目を見開いた。
それを見て、ミソギは緩やかな笑みをたたえながら少し呆れた口調で話し始めた。
『「耐えられても痛いものは痛い。」「だからなるべく痛い思いはしちゃダメだよって言ったでしょ?」「僕が目を離してるすきに捻くれた子になっちゃって、仕方ない子だなぁ」』
「なに、しに…っ」
どうして。
キルアの頭の中はそんな思いでいっぱいだ。
ゴンたちが試しの門に来たと聞いて、彼女も同行している可能性は真っ先に考えた。むしろ一緒ではないと考える方が難しい。
自分が試験を投げ出してしまえばこうなると予想できただろう。今更後悔の波が押し寄せる。
自分の弱さがまた姉を苦しめている。
何も知らない、覚えていない彼女がこの家での扱いに再び傷ついてしまったら。
その傷を"なかったこと"にしてまた自分のことを忘れてしまったら…
「あ、」
キルアは自分の思考が行き着くところに愕然とした。
姉の幸せのためなら何でもすると豪語した癖に、結局は自分を忘れられることを何より恐れている。
どうして、自分はこうなんだ。
ギリっと唇を噛みしめて視線を床へ向ける。
彼女の黒いローファーが硬い音を立ててこちらへ向かってくる。
そこでふっとキルアは気が付いた。
…どうやって姉ちゃんはここまで来たんだ?
ゴンたちはまだ試しの門だ。姉が自力で門を開けることができたとしても庭にはカナリアがいる。線を踏み越えようとすれば容赦なく制裁を加えるはず。
執事たちは皆一様に彼女を嫌っていた。カナリアも例外ではない。死んだはずの彼女、嫌われ者の彼女が再びこのククルーマウンテンに足を踏み入れることを彼らが許すのだろうか。
どうして、だって、姉ちゃんはもう"ゾルディック"じゃないのに。
もうその名前に、家業に縛られることはないのに。
それがなんで…
カツン。
冷たい音が室内に響く。
白魚のような指がキルアを戒める鎖に触れた瞬間空気に溶けるように消え失せた。
例の"大嘘憑き"で鎖の存在自体をなかったことにしたのだろう。万能にも近い魔法のような力だ。
腕が解放されたキルアは冷たい石の床に降りると、なにを言うべきか逡巡した。しかし、キルアが口を開く前にミソギが言った。
『「僕は何でも"なかったこと"にできるけれど」「だからといって進んで怪我をしちゃいけないよ」「物を乱雑に扱ってはいけないよ」「その痛みや記憶は大切にしなくちゃいけないんだよ」』
「!!!」
それは。
その、言葉は。
『「ごめん…ごめんね」「みんなとの記憶を大切にしていなかったのは、僕だ」「ごめんね、たくさん傷つけたよね」』
いつも底抜けな笑顔を浮かべていた姉は、その丸い瞳を歪ませて、泣き出しそうな顔をしていた。
初めて見る、姉の顔。だけど、ずっと焦がれていた"姉"の顔。
『「キル、僕を」「こんなどうしようもない人間を」「もう一度姉と呼んでくれるかな…?」』
そんなの。
今更どの口が聞くのだ。
「…呼んで」
『「え?」「なに?」』
「おれのなまえ、よんで」
『「キル?」』
「もっと」
『「キル」「キルア、」「いくらでも呼んであげるよキル」「キルア、キル、僕の弟」「意地っ張り見栄っ張りだけどちょっと泣き虫なキル」「ほら、泣きすぎるとキルの大きな瞳が溶けちゃうぞ」』
彼女の指が優しくキルアの目元を拭う。今さっき鎖を跡形もなく消した指で、どこまでも柔らかくキルアに触れる。
姉の姿をよく見たいのに、歪む視界がそれを許してくれない。
ああ、なんだ、ちくしょう。
なんだか悔しくなってきた。
「ミソギ姉ちゃん…っ」
『「うん、なぁに?」』
「ばかやろー遅すぎんだよ寝坊でもしてたわけ?」
ぼろぼろとみっともなく涙をこぼしながら、キルアは吐くように悪態をつく。
『「知らない間にすっかり可愛げなくなりやがってキルこのやろー」』
「姉ちゃんのばーか」
『「ばかって言うほうがばかなんだよ!」』
「ばーかばーか」
『「かーばかーば!」「キルのハゲ!」』
「ハゲてねーし!姉ちゃんの貧弱!」
『「弱いは認める!」「しかし貧しいってどこ見て言ってんだ胸囲のことだったら覚悟しろ」』
「ごめん地雷だったマジごめん」
変わらなすぎでムカついてくる。
姉はこんなにも姉のままだし、キルアはこんなにも姉が好きなままだ。
忘れていたからって他人にはなれないし、思い出せばすぐにでも家族に戻れるくらい、キルアはミソギが大好きなのだ。
そして、それはミソギも同じこと。
「…おかえり、姉ちゃん」
ああ
その言葉に
僕は"球磨川"だった18年、"ゾルディック"に生まれて12年、全てを失って6年、
ずっとずっと、あこがれていた。
僕は、その言葉を普通にもらえる家族がほしかった。
その言葉を受け取ることを普通と思える自分になりたかった。
その言葉と同じくらいに焦がれた言葉がもう一つあるんだ。
今、言ってもいいかな?僕はそれを口にしてもいいの?
それはとても、しあわせなことばなのに。
ぼくなんかがいってもいいの?
『ただいま、キル』
僕は、そう言える場所がほしかったんだよ。
「ねえミソギちゃん、君はこの世界を選んでしまっていいのかい?」
ただいまを言うこととおかえりと言ってもらうことが夢だったの
(その言葉を、僕はずっと後になって思い出す)
……………………………
ミソギちゃんって転生トリップ前から天涯孤独のイメージしかない…私だけか?
試しの門はすっ飛ばしました。いつか暇があったら書きたいです。電話でゴトーとお話しするところとか。
ゴンたちはしばらくおやすみです。ゾルディックのターンですから。
ゾル家でミソギが生き返れるのを知っていたのはカルトだけだよってことが言いたかっただけの冒頭。
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