その後、壁際に転がったわたしは辛うじて母達の話を聞いた。
子供が出来たそうだ。
だから、もうあの子に構わないで、と
だから、私を愛して、と
―――あいって、なんだ?
翌日、男の姿は何処にもなかった。
ただ泣きわめく母がいるだけだった。
わたしの一日は、大して変わらなかった。
学校で殴られ
家で殴られ
冷たく固い、部屋の隅で眠りにつく。
…ニンゲンは、憎い
母は、その腹に宿した子供を産んだ。
産めばあの男が戻ってきてくれるかもしれない、と。
何処までも愚かで可哀想な人だった。
…ニンゲンは、醜い
母が病院に入院している間、わたしは平和だった。
学校へは行かず、テニスだけをして過ごした。
てまりちゃんには会わなかった。大分前から会っていなかった。
理由もなく突然スクールをやめさせられた後、てまりちゃんが送ってくれた手紙を母に目の前で破られてから一度も会っていなかった。
病室で、母は一度もわたしを見なかった。
ただ服が入った包みを置いて、そのまま帰ろうとした。
ふと、わたしは隣に母の隣に並ぶ病院用ベビーベッドに近寄り、覗き込んだ。
小さな、4つの目と、目があった。
母が宿した子は、双子だった。
自分と同じ赤毛に、黒い双眼。
手を差し出すと、僅かな力でぎゅっと握った。
暖かい。
暖かい。
暖かい。
ああ、この二つの命は
わたしが守らなくてはいけないんだ。
全てを亡くしたわたしに、新しい全てができた瞬間だった。
母が退院してからも、当然だが男は帰ってこなかった。
当たり前だ。子供が嫌で母を捨てたのだから。
私は耐え続けた。守り続けた。
時に盗み、時に母からお金を強請って、ミルクを買って。
母がこの子達に暴力をふるおうものなら全身を使って守った。
ある日、母が突然帰ってきたわたしと弟たちに向かって手を振り上げた。
わたしはいつものように弟たちの盾となるために前に出た。
避けても無駄だということは分かっていたから、避けようともしなかった。
でも、この日は違った。
母の手には、冷たく銀に輝く刃があった。
ザシュ
わたしの腹に刺さる、銀。
わたしを染めて、わたしから流れる赤、朱、紅。
わたしの髪より黒くて暗い
ア カ
母は包丁をわたしに刺したのだ。
傾く視界の中で母が狂った笑いを浮かべた。
掠れていく音の中で、弟たちの泣き声が聞こえた。
ああ、結局、"わたし"は弱いんだ。
次に目が覚めたのは病室のベッドの上だった。
両腕に僅かな重みを感じて視線を左右に振ると、弟たちがそれぞれ両方に寝ていた。
ナースコールを押すとすぐに医師が飛んできた。弟たちが起きなくて良かった。
そしてわたしは母が精神科病棟に入れられたことを知った。
治ったとしてもわたしたちとは一緒にいられないそうだ。
こちらとしては願ってもないことだ。
わたしたちは神奈川にいる祖父母に預かってもらうことになった。
が、それは形式上のことで、実際は頼み込んでボロアパートを借りて、三人で住んだ。
わたしは昼夜を問わず魘され続けた。
母の、父の
声、顔、感覚、全て
父に犯された、あの痛みと恐怖
母に刺された、あの絶望と失望
わたしはイラナイ
よわいわたしはイラナイ
しにたい、しにたい、しにたい
ならば、しんでしまおう
ならば、ころしてしまおう
幸い神奈川へ行けば知り合いなんて一人もいない
わたしがしんだって誰も気が付かない
わたしがわたしを殺した日
(そして作ろう)
(強くて明るい、偽りの仮面を)
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