9.5
「いい加減にしてくれ名前さん!!…そのまな板に抱き締められても……、虚しくなるだけだ」
そう言って俺は、俺の出せる限りの速さで名前さんの部屋を出ていった。
名前さんがどんな表情をしていたかなんて知らない。知りたくない。…知るのが怖いんだ。だから顔も見ずにそのまま出てきた。別にさっき言ったことが本心なんじゃなくて、でもなんでかな、俺の口はひねくれた事しか言えなくて、素直に恥ずかしいって…そう言えればよかったのに。
…名前さんを傷つけてしまったかもしれない、
いや、こんなことを考えるのはやめにしよう。馬鹿らしくなってきたよ。そもそも無遠慮に抱き締めてくる名前さんが悪いんだ。…でも本人に悪気はない、のかもしれないけどさ…俺だって男なんだよ。それを気にしてもらえてないようで、嬉しいのに、悔しくて…恥ずかしさにかまけて勢いであんなこと言っちまった…
名前さんが男だったらさっきの言葉に首を傾げるだけで気にしないのかもしれない。…ああ、鍛練してなくてない胸筋ってとらえられたらそりゃあ男でも怒るんだろうけどさ、
名前さんは女の子だ。
よく見れば鍛えてない男のそれとは違う細さ、そう、女の子特有のそれを持ってて、声は確かに低いのかもしれないけど男の声ってわけでもない。胸だって……ある。ただそんなことわかっててもぱっと見男に見えるんだ。中性的な顔つきだけどどっちって聞かれたら俺は"男!"って答える。だから初対面の時も"お兄さん!"って呼んでしまったわけだし…
その時の事といい、さっきの事といい、女の子としての名前さんをすごく傷つけたのは分かってる。分かってるんだ。でも謝りに行けるかって訊かれたらそれは別の話で、…でも謝りに行く気がないわけでもなくて…、
ぁああああぁああああぁああもう!!!考えるのはやめにしようって言ったのに逆効果じゃん!!
……外の空気を吸って気分を入れ換えよ…。城下のみんなをからかいに行けばこんな考えも吹き飛ぶだろ。
そんな安易なことを考えて名前さんの部屋を飛び出したその足をそのまま城下へ向けた。
あーっすっきりした!
なんて思って昨日、気分上々に城下から帰ってくれば利からまた小言をもらった。まつ姉ちゃんは夕餉の支度でいなかったからまだだいぶマシだったんだけど、利は小言よりもそのあとに垂れる教訓の方が…ってどっちも同じようなもんか。
名前さん、利に告げ口したのかな…
なんかしそうにないけど利が言ってくる内容が俺が名前さんに昨日言ったことを咎める様なことだったからそうなんだって思っとく。
ぅあー…なんか納得いかない。せっかく城下で気分転換できたのにまるで意味がなかったよ。そのせいでろくに寝れなかったし…はぁ…。昨日の今日でまた城下に行くわけにもいかないし、何よりなんとなく…気分が乗らない。
どうしようかな…なんて考えたとき、ふと向こう側の縁側を名前さんが歩いてるのを見かけた。何か手拭いを肩にかけていたのを見て、ああそっか。朝起きに顔を洗いに行ったのかと納得して、ピンと閃いた。
へへっ、見てろよ利。
隠しきれない顔のにやけをそのままに、名前さんの来た道を全力でかかていった。通りがかり、名前さんが何か言った気がした。でもそれどころじゃなくて、振り返らずに走った。
全力で走ったこともあってすぐに目的の場所についた。井戸に面した庭だ。
「利!」
「おお、宗兵衛か。こんな早くにどうしたのだ?」
「おはよう、利」
利は朝、まつ姉ちゃんに言われて顔を洗うとそのまま朝餉ができるまで空腹を紛らわすようにこの庭で鍛練を始める。今日も案の定そうで、探す手間が省けた。
「利、ごめん。俺、…自分がすごく情けないよ」
「ん?なんだ宗兵衛、どうかしたのな?」
「利とまつ姉ちゃんこれまで言われたこと、おもいかえしてやっと気づいたんだ」
俺、すごいみんなに迷惑をかけてきたんだなって。
そう言って困った風に笑うとさっきまでなんのことを話しているのか分からないと首をかしげていた利も、俺が反省しているんだと顔を輝かせた。
「宗兵衛!!お前もやっと分かってくれたか!」
「うん、ほんとにごめんな、今までいっぱい心配かけて。俺、心入れ換えて真面目に生きることにしたよ」
「そうか!某はそれを聞いて安心したぞ!まつにも言わなきゃな!」
「そ、それでな!利!」
今にもまつ姉ちゃんのところへ行こうとする利を慌てて止める。今行かれたら困るんだ。どうにかして利の気を引かないとと考えるとまだまとまらない思考とは裏腹に口は勝手に動いて、へへ、長年の自分の行いにすこし得意になる。
「利にお礼っていうか、利にお茶をもてなそうかなって思って」
お茶菓子ももちろんいっぱい用意しとくよ、何て言えば食いもんに目がない利の目が爛々と輝いて、落ちた、と思わず笑みがこぼれた。
「朝餉が終わって小腹がすいたらおいでよ」
それだけ伝えるとまた後でねと手を振る。
急がなきゃ。まだ時間があるなんて思っちゃいけない。早く準備しないと、利の事だから朝餉を終えた瞬間が小腹をすく瞬間だ。向かう先は風呂場一直線。
「今日は一段と寒いし、お茶の前にひとっ風呂浸かるのもどうだい?」
「うむ、お前も気が利くようになった。それは最高の馳走だな!」
まつの飯を抜きにしたら!なんて満面の笑みを浮かべて言う利の顔に蹴りを入れたくなったけど…もう少しの辛抱だよ、俺。と利を風呂場へと案内する。
「ちょうどいい湯加減だから安心して入りなよ!気に食わなかったら言って?俺、湯の調整してるから」
「おお、それはいい。では頼むぞ、宗兵衛」
「はいよ」
何も知らず無邪気に利は風呂へと向かう。のと同時に俺は…全力で外に走ってった!!!!!!!!!急げ!!!風呂場と厩が近くて助かった!!!!!!!!!!!!
「ぁ"ああぁああぁぁああああああぁああ!!!!!!!!冷たッ!!へ、っくしゅ!!!」
「犬千代様っ、これは何事ですかぁあああ!!!!」
まつかぜ、松風…っ!!へへ、あとは任せた!
それよりも"後"が怖そうだけど、とりあえず今はこの場のまつ姉ちゃんと利の小言から逃げるのが先だと愛馬と風に乗って城を後にした。
してやったり
(うわ、ソーベー死にかけじゃんよ)
(……ごめんよ名前さん、まな板とか言って…)
(ん?ああ、別に)
(風呂場の天井くらいには柔らかさはあったよ)
(………………………)