花、傍に
「!!?」
「あ、おはようございます」
にこっと満面の笑みを浮かべる見慣れた顔、落ち着く笑み、われの胸の内を掻き乱す者。
その笑みを見ればわれの機嫌が深い渓谷の底程に最低の位置にあったとしても一瞬にして釣られて笑みを浮かべてしまうほど穏やかになれる。そんな力を秘めておるが今は逆にわれを渓谷に突き落とす。
恐ろしい。
「朝ですよー、起きてください」
「……」
ぽんぽんと髪に手を当てられる。
やれ名前、夢の中でまでわれに触れやるか。物好きな娘よなァ…
「あ、二度寝ですか…?」
………。
「名前!!?」
「はい…?」
目を開けると少し動けば触れてしまうほどの距離に名前が居た。
落ち着いて目を瞑り、ゆっくり体を覚醒させることであれは夢だったのだと己に分からせようとしたのがわれの敗因か…"二度寝はだめですよー"と言いながらわれの頭を撫でる名前にさらにうろたえる。
「な、なにゆ、え…あ……あ、」
「…?」
「何故主がここにおるッ!!」
バッと布団の中に入る。
何故、なに、な、名前がここに…ッ
「もう起きてらっしゃるかと思って…」
われは今、兜をつけておらぬ…当たり前よ…今の今まで夢の中におったのだからな…
み、見られ…いや、それも問題ではあるが感染りやるやも、否、嫌われるやも、いな、名前が、
名前が…ッ、
ぁああぁああああああああ゛ぁあああ゛ぁぁ……。
…われ、 終わったやも しれ ぬ。
「もー…なんで潜り込んでしまうんですか…あ、ほら女中さんが朝餉を持ってきてくれましたよ」
ゆさゆさと緩くわれの体が揺さぶられる。
ああ…三途の川を渡る最中の船の上にでも居るのかと思うてしまったが名前の女中にもう一膳朝餉を用意してもらう会話が聞こえてきてそういうわけでもないのだと悟る。
「吉継さんの髪、初めて見ましたよ。…あったんですね」
「ないとでも思うたか」
くすり笑う名前にほんの少し殺意を向けてしもうた。われをなんだと思うておる。
「さらさらと綺麗でしたね、吉継さんすぐ隠れちゃったからゆっくり見れなかったじゃないですか」
「…主の髪とて同じ漆黒でわれより艶もあろう」
何を羨ましがることがある、
「それといい加減出てきてくださいな…せっかく吉継さんのお顔を拝見できるめったにない機会だというのに」
「……ぬし、遊んでおるな」
「まさか。いいからほら、いつまでも駄々をこねていてはいけませんよー?」
よいしょと合わない台詞を口にわれの布団を剥ぎにかかった。
不思議と先ほどのあの抵抗もしなくなった。見放すならそうしやれ…ぬしが決めたことよ…
「美人さんですね」
そっぽを向いたままのわれの頬に手を添えそちらに向けさせる。その手が存外に居心地よく、目を軽く閉じてされるがままになった。
「まつげも長い、」
そう言って目元をなで、
「頬にちゃんと赤みもあるし、」
手をそのまま頬にすべらせ、
「唇だって綺麗な形…、」
そう言ってわれの下唇に親指を這わせ、思わずそれを食んだ。
少しびっくりされるも朝餉にしましょうかと返される。
われは空腹ゆえにこうしておるのではないわ…
思うも口から出るはずもなく起きましょうねーと背を支えられては起きるほかあるまい。狙っていたのではないかとちょうど女中がもう一膳朝餉を運んできた。その際われを見て目を見開いていたような気がしないでもないが、まぁ無理もなかろ。
「なんで普段兜をなさっているのですか…?」
「いつ来るとも分からぬ敵襲に備えるためよ」
「万全ですね」
「当然よ」
斯様に騒がしい朝餉はいつ以来か。騒がしいというほどでもないが記憶を遡ってもしばらくは一人での食事しか刻まれておらぬゆえ…
汁物を手にしながら目の前の名前をちらり盗み見る。
はて、こやつは何をしにここまで来たのか。相当暇を持て余しているのか、このようにゆるりわれのところで朝餉などと…。
しかしわれと違って名前はいつもどおりの着物を身にまとっておる。あの微妙に賢人殿に似通った西洋風味の着物よ…われが寝巻きのままであるのに対してなァ…
「吉継さんはそのままの方がいいですよ」
「軍議に寝巻きで行けと」
とことん賢人殿の妹君であるなァ…特にこういった鬼畜なところがs
「なんでそうなるんですか。兜の方ですよ」
「兜がどうしやった?」
やれ違ったか…して兜とな?
……全く話が読めぬ。手にしていた椀を一度起き、聞く方に専念する。
「そうやって外してたほうがあなただとわかる部分を多く捉えることができてすごく落ち着きます」
「あの兜はわれの最大の特徴といってもいいのだがなァ…」
「それは確かに否定できませんがそちらの方が私としてはいいです。包帯が少し目立つような気がしないでもないですけどしなかったらそちらの方がより目立つ気がします…」
「目立つ…」
「はい。そのかんばせにあります包帯は吉継さんの美を規制するためのものですから」
「何を言うておる」
頭を抱える。
ほんにこの娘は関われば関わるほど残念よ。琴を弾いておれば儚げで可憐な奥ゆかしい深窓の姫君であるというに。
あれやこれや話すうちに朝餉を終えた。が未だに名前がわれに何用かを話さぬ。われも特に聞かぬ。必要なればこやつから何か言うであろ。文机に向かい、本日分の政務をこなしていく。
しばらくは布団を畳んだり本を積み重ね寄せたりと女中に任せればいいようなことをちまちまとやっておったが小奇麗になった部屋にやることが尽きたのかわれの背に背を合わせ凭れると一息つく。
「…いつからわれが主の背もたれになった」
手を動かしたまま問う。
手元に落ちる影の角度から起きてからかれこれ二と半刻ほど経っておったのかとぼんやり思う。
「これ、結構落ち着くんですよ」
「そうは思えぬがなァ…」
何が落ち着くというのだろうか。背もたれならば壁に代役でもさせればよかろうにわれは名前の中では壁と同列か…?なんと哀しき…今ならば涙に闇属性を纏わせ墨代わりにすることができる気がしやる。節約よセツヤク…
「背中越しに感じる温もりと鼓動に確かにそこにいてくれてるんだなって思えるんです」
おそらく目は閉じられておるだろう、ふんふんと何やら口ずさんでおるその様を小鳥が歌うそれと重ねる。
最近以前にもまして事あるごとにこやつを愛しく思う瞬間が増えた気がする。重症よ、われもいよいよ末期を迎えたと見る。否、とっくに迎えておったな…
今朝のことからゆっくり振り返る。
起こされ、そのままの方がいいと言われ、ともに朝餉を食し、われが執務をする間は部屋を片付けわれの存在を再確認すると背を合わせる。まるで夫婦よ…
意識した途端に頬に熱が集まった。気がする。最近このようなことも多い。われはあれか…以前軍医が口にしておったコウケツアツとやらか…われの身に降りかかる不幸はまだまだ止まぬらしい…ヒヒ…
筆を起き、同じように体の力を抜いてみる。
たしかに、名前の言うような…不思議な感覚に呑まれてしまいそうになる。目を閉じればより鮮明に、相手の鼓動が伝わってきた。
しかしやはり姿を目に移さねばほんには落ち着けぬと思うわれは強欲か…?
いつもよりも近いその距離に、いつの日かこの腕に閉じ込める時が来るあろうかと小さく望んでみる…
そう遠くないのやもしれぬ、なァ…
不意に漏れたらしい笑みに何を笑ってるんですかと笑いながらいう名前。いつまでもこの瞬間が続けばいいと、願った自分に気づかぬふりをした。