花、笑む
翌日、部屋に来るようにと賢人殿より言付かった。
「いつから、知り合ったんだい」
有無を言わさぬような、硬い声。いつもの柔らかな雰囲気などかけらも見当たらぬ。今、目の前に居られる賢人殿は太閤殿にとって邪魔な存在を前にしている時のそれで思わず言葉を詰まらせる。
沈黙を許さぬ目で射抜かれる。が…いつ…いつからわれは名前と知り合ったか…
分からぬ…
出会いはどのようなものか、どのような言葉を交わしてきたか、どういう風に時間を共にしたかは今でも全て鮮明に思い出せる…。しかとこの脳と眼に焼きついておる…
しかし、いつかと…そう問われれば分からぬ…。
とんと、分からぬ…
それが伝わったのかそう、と何も言わぬ内に一人頷いて下を向き、小さな…耳を済まさねば聞こえぬほど小さな声でこう言うた。
「……名前は、…もう……永くない」
「…賢人殿、われとしたことが貴殿の申したことを聞き逃したようにご――」
「聞き逃してなんていない。……君は聞き逃しても、聞き間違えてもいない」
名前はもう永くないんだ
悲しさ、諦め、悔しさ、怒り…諸々の負の感情を無理矢理無という仮面の下に固めて押し隠したような、そんな静かな声であった。
永くない…?
名前が…?
先程まで我が中々追いつけぬほど元気に走り回っておったではないか…
斯様にタチの悪い冗談とは…賢人殿もなかなか人が悪い…。
「彼女は中々頭の回転がよくてね、勤勉で、僕の自慢の妹なんだ」
「妹…」
「そう。浅井領で隠遁生活をしていた時に二人して声をかけられてね…名前ははじめ、秀吉の側室になる予定だったのだけれど、とても子を産める体じゃなかったから」
名前が賢人殿の妹君…体が弱く子を産めぬ…
驚くことをいろいろ耳にしたというになぜか無性に苛ついた。
側室…名前が側室とな。悪い話ではない、相手が太閤殿となれば尚更よ。中々に整った見目をしておる、物腰の柔らかな佇まいやらさりげない気遣いやら何やらと技量も良い。賢人殿がこれほど誇る者ならば並の女など目ではないのだろう。当然とも言える成り行き、がしかし何かが引っかかる。
例えるならそうよな、取り出したいものが他のものと複雑に絡み合って中々取れぬ様、焦燥感に駆られる状態…
「吉継君も知っての通り、ここの軍事全般は僕が秀吉に任されている」
「…あ、ああ…そうにございますな…」
「僕が取り扱っている以外の城のことは彼女が請け負ってるんだよ、それが彼女のここので仕事」
それは、知らなんだ…
尚も賢人殿は話を続ける。今までわれが知らなかった事を次々とその口から紡いてゆく。ひとつ、ひとつ耳にする度に今まで感じていた違和感、疑問に思っておった空白の部分が埋まっていくのを感じた。
名前から感じる儚さも、他の姫と比べると癖のある髪も、紫根の瞳も、白すぎるその肌も…なるほど賢人殿の妹と言われても違和感を感じぬ。
斯様に人払いを出来たのは賢人殿と並ぶ参謀の座、賢人殿の妹君で太閤殿の側室候補とたやすく出来る立場にあった故か、西海の鬼とおかしなやり取りが出来るのも頷ける。
考えとうない。
ああ…考えとうない…
われは今、何も考えとうない…
置いてゆけとは…止まる己が時間とともにということであったか――
"彼女は君に一番気を許してるようだからね、名前をよろしく頼むよ"
そう言って肩を叩かれてからどれほどたったのであろうか…賢人殿は用があると言って席を外された。
いつまでもこの部屋に居座るわけにもいかず、そろそろと部屋を出る。
呆然としたまま輿をすすめ、特に行く先も決めずにいると、気づけば己のではない、馴染みのある部屋の前にたどり着いた。そうだと気づいたのはその部屋の前にいる見張りに足止めされた故よ、
「…吉継様、これより先はお引き取りくださいませ」
いつの日だったかと同じ言葉をかけられる。よく見やれば以前と同じものがここにおる。斯様に眠らされたというに中々肝の据わってる者共よ…
しかし不思議と以前のように眠らせる気にはならなんだ、引き返す気もないが…
「賢人殿より、名前…殿を頼まれておる」
嘘ではない、
賢人殿からであればとわれに道を開けた。"名前殿"という呼び方に違和感しか感じぬ…ああ、名前がわれがこのように呼ぶのを聞けば如何様な顔をするのであろうか…さぞ滑稽で、見ものであろうなァ…
「名前、」
いつものように小さく名を呼ぶ。いつものように返事は帰ってこなんだ、
障子に手をかけ静かに開ける。敷かれた布団から除く名前の顔はいつも以上に血の気がない。
ああ…あのように人払いをするときは火曜な状態にあった時であったか…いつぞやはわれが無理に押しかけたにも関わらず気にした風もなく笑みを浮かべおって…
枕元に腰を落ち着け、手を伸ばす…
「…ん、…」
「!」
やれ起こしてしまったか…?
自然と髪を撫ぜていた手を慌てて引っ込めると、名前はうっすら笑みを浮かべ
「吉継さんは、ずるいですね」
などという。
「…何を言うておる」
「……私には触れるなと仰るのに、吉継さんは触れてくださるんですもの」
不公平でしょう…?
少し目を開け、その紫紺にわれの姿を捉える。
賢人殿の話を聞いてからようやっと落ち着き始めたというに今度は心の臟がどくどくと激しく脈を打ち付け頭の中を悪戯に掻き乱す。
無意識に手を掴んでしまった。
「…吉継さん…?」
「ッ、い、いや…」
なんでもないと手を離そうとしたらぎゅっと手を握り返された。
な、何をする…
「しばらく、傍にいてもらえませんか…?」
「……われは忙しい、」
「そう言わずに、後でちゃんとお手伝いしますから」
楽しそうにふふと笑う、
こやつはよくわからぬ、何を考えているのかさっぱりよ、サッパリ。
「此度だけぞ、」
「はい」
我の手を頬にあて、擦り寄る名前。少し笑みを浮かべたまま目を閉じる。
その顔は反則よ…
あまりにも無防備、斯様な姿を異性に晒すとは…われは男として意識されておらぬのか、あるいは訪れたものには誰にでもそうしておるのか…
そう考えると怒りに似た苛立ちが腹の底からふつふつと沸き起こった。それで思わず握る手に力が入ってしまったが、痛かったであろうにそれに応えるかのように手を握り返された。
そうか、
人払いをされてるこの空間に脚を踏み入れられているのはわれのみ、賢人殿が先ほど口にしていたことを思い出す。
"彼女は君に一番気を許してるようだからね――…"
われに、一番…
「悪い気は、せぬ…」
名前と同じように目を瞑り、小さく小さく笑みを浮かべた。