花、咲く
生まれながらに不治の病を患う一族が居る。賢人殿がその出である。
そしてもう一人、その一族からこの城に仕えている者が居る。
その存在は公にはなっておらぬが、隠されているというわけでもない。賢人殿曰く、"わざわざ言うほどのことでもない"とのこと。
故に知っている者は知っているが、知らぬ者は知らぬ。われも、つい数ヶ月前までは知らなんだ。それを知ったのは…
…はて、いつだったか。
もう随分経っているようにも思えるが、つい最近のようにも思える。
残暑ということもあり、その夜はなかなか寝付けず書を読みすすめていた。
城の者は皆寝静まり、障子を開け、浮かぶ月を見やると…今は丑三つ時だということが分かる。
ちょうど、キリのいいところまで読み終えた故横になるとするか…
と、琴の音を耳にした。
なんとも哀しき音色であった…
興味が湧いた。
この琴の音を奏でるものは誰ぞ、と。
されど知りたいというに体が動いてくれなんだ。まるで見えぬ鎖にで縛られたかのようにこの不自由な身体の僅かな自由をも奪い、この部屋に縫い止める。
彼岸のモノの仕業かと、ふと頭を過ぎったそれを軽く笑って否定する。
そうだとしても我には効かぬ。われも限りなくあちら側のモノ故に、な。
しかし動けぬとなれば致し方ない。大人しく今宵は諦めようぞ。
もう一度耳に出来る保証もないというに、われは静かに目を伏せた。
気づけば朝になりて、はて、いつの間にか横になっておったのかと首を傾げた。
昨晩あったことを三成に言うて心当たりがないかを聞いてみたが聞いたわれが馬鹿であった。太閤殿と賢人殿も同じような反応であった。そのような音は聞いておらぬと、一蹴されてしもうた。
ではあれは空耳か、われは疲れておるのか。故に身体もいつも以上に不調になったのかと無理やり己を納得させる。
しかしココロに止まったものは中々消えぬようで来る日も来る日も丑三つ時まで起きておった。
が、あの琴の音を耳にすることはなかった。
「……はぁ……」
いつまでも小さきことに捕らわれておる己に呆れた。
一つ大きなため息をつくと傍らにあった茶を口に含み、何もない庭を眺める。
「っ!!」
あれぞ、あの音ぞ!!!
不意に琴の音が流れた。聞き覚えのある、あの哀しき響きを持つ琴の音よ…っ
不意に聞こえた琴の音に、輿を急ぎその音の方へと向かわせる。
急ぎやれ、急ぎやれ…っ、
…あの音が止んでしまう前に、この体がまだ縫い止められてしまう前に…ッ
奥に、奥にと輿が進む。
階段を上がり、大阪城の中心へ、
やれ待て、マテ…そちらは重臣どもの部屋があるところ、
…もしやあの音色を、ここの老いぼれが弾いておると申すか…ヒヒ、面白い。
ならば顔を拝んでやろう、そうしてわれが遊んでやろ。
輿が止まったのは一つの大きな部屋の前であった。
障子に何かしらの模様はなかったが値の張りそうな上質な和紙が使われておった。
われがそこに着くと同時に琴の音が止んだ。
「…何用にございましょう…?」
中からは、鈴のような、女子の声がした。
なぜかは分からぬ。われは強く手を握り締めた。ちらと見やれば微かに震えを伴っておった故、ますますわからなくなった。
「立ち話もなんですし、お時間があればどうぞお入りになってくださいな」
くす、と微かに小さく笑う声が聞こえた。
己が頬が熱を帯びたことを感じ、顔を顰めた。斯様な年になっても未だに女一人と碌に話せぬとは。
「…失礼する」
「今座布団を用意しますねって…要りますか…?」
「いや、構わぬ…」
障子を開け、中に入るとわれが座る場を設けようと向かっていた琴の前を立ったが、われの出で立ちを見てそう問うた。
恐れられただろうか…
慣れたはずなのに恐怖が胸に募り、下を向く。
「我が部屋のように適当に寛いで下さい、もう少し琴を弾いていても…?」
「ああ…構わぬ」
驚いたような表情はほんの一瞬で、女はすぐに笑みを浮かべ爪を嵌めた指で弦を弾いた。
ああ…これよ…コレ。
この哀しき響きよ…
目の前で音を奏でる女は微笑を浮かべたままで、儚さを感じるその雰囲気はどこか賢人殿に似ていると思うた。
先にかけて弧を描く漆黒の巻き髪は紫紺の瞳に妖艶な輝きを持たせていた。
なんと、美しくも儚い存在よ…
琴の音が止んだ…
やれもう終いかと女を見やれば驚いた顔をしておった。何事だと首を傾げれば今度は笑みを一面に浮かべた。
「一目惚れでもしましたか…?逃げたりしませんのでそう強く捕まえていなくても大丈夫ですよ」
「………ぬかせ」
屈託なく笑う女。
手元を見ればその手首は我に強く掴まれており、血が流れられないのか白い肌がさらに白くなっていた。己の行動に驚いて少々乱暴に払うと気にした風もなく掴んだ衝撃で落ちたであろう爪を拾って片付ける。
先のことを笑って済ませるとお茶でもしましょうかと琴を退け席を外す。
それでよいのか…疑問に思うも問われたところでわれ自身何故あのようなことをしたのか分からぬ故助かった。
戻ると黙々と茶を淹れていた。
なかなかの技量、整った容姿に落ち着いた物腰、どの家の姫君だろうかと考え耽る。
「主、名はなんという」
「名前と呼んでください。そちらは…?」
「……われを知らぬと…?」
「恐れながら、」
悪びれた様子もなくそう返す。
この城において我のことを知らぬ者は居らぬ、悪い意味でな。…そう思っておったがこの女は知らぬという。とんだ箱入りな娘もいたことよ。
名を名乗るとあー、とよくわからぬ声を出す。名くらいなら耳にしたことがあるということか…
「そういえば何故頭に蝶を模したものがあるのか伺っても…?」
「…知らぬ」
「不思議な方」
よく笑い、よく話が変わる…忙しい女よ。
しかし不思議と煩わしく思わぬ、居心地も悪くない。
われを不思議というか、われは主が不思議よ。
思えば、顔をあわせる前からココロを奪われていたのやもしれぬ…