「先生さよならー」
「はいはいさよならー」

生徒を送り出せば塾の先生のお仕事は一通りおしまい。未来ある子供たちを誑かそうとする輩の多いこの期時世、小学生には必ずお迎えが来る。そしてこのお迎えに軽くサボり防止の意も含まれているのは親の事情。
ホワイトボードを消しながら、窓際の席で大人しく本を読んでいる最後の生徒に、今日は遅いな、と社交辞令のような会話を持ちかける。子供とのコミュニケーションがあまり上手じゃない俺からの精一杯のアプローチ。例えバイトでも塾の先生は先生なので、生徒の気持ちは大切にしなくちゃいけない。得手不得手は別として、マナーみたいなもの。

「今日はお兄ちゃんが来てくれるから」
「お兄ちゃんか」
「うん、大学生で一人暮らししてるけど、夏休みで家に帰ってきてるから」

うれしそうにする小学5年生、素直な笑顔がチャームポイントの不破雷蔵くん。そっかそっか、と何の変哲もない相槌を返しておく。一応断っておくと、俺は会話を続けられない検定1級だ。そんな不名誉検定があったら、たぶん余裕で取れる。
しん、となった広い部屋になんとなく気まずさを感じる。早く来いお兄ちゃん。

「久々知先生と一緒だよ」
「は?」
「お兄ちゃんの大学」

大学名をさらりと言ってのける雷蔵くんを思わずガン見してしまう。なんて偶然。
ただ、不破、なんて知らない。そんな珍しい名字だったら絶対分かるはずだから、たぶん学年か、学部が違うんだろう。加えて兄弟なら少なからず似てるんだろうが、頑なに本から視線を逸らさない雷蔵くんから連想できるような人間を俺は知らない。
へえーと内心の驚きとは裏腹に興味のなさそうな振りをしながら、急にできた接点を思わず手繰り寄せてみる。

「何回生?」
「2年生だよ」
「…え、いや、マジで?学部とか…」
「んーなんか、いっつも旅行してる」

ああ、人文の観光の奴なら、まぁ知らなくて当然か…と勝手に納得したところで入り口の方が騒がしくなる。理系とは相容れないだろうそいつの顔を拝んでやろうと何気なく眼鏡を掛けてみる。途端に本を閉じて駆け出す雷蔵くんのその向こう。いかにも洒落た風貌の優男が弟の名前を呼んだ。アッシュグリーンに近い短めの毛先をゆるくはねさせて、外国の少年を思わせる。
顔はなんとなく笑ったところが似てるような気がする程度。大学2年生と小学5年生って、何歳離れてんだろう。もはや年の近い親子に見える。のは、兄弟が仲睦まじくぎゅうと抱き締め合ったあとに手を繋いだから。それもいわゆる恋人繋ぎで。

「ごめんなー、思ったより道混んでてさ」
「ううん、本あったし、それよりお腹すいたぁ」
「はいはい、家で母さん待ってるから。今晩はオムライスな」
「んー三郎くんの方がオムライス上手なのに」
「こらそんなこと言うなよ?先生、遅くなってすいませんでした」
「や、いえ、お疲れ様です」
「あの先生、三郎くんと一緒の大学なんだよ」
「え、マジですか」
「はい、なんか……」

思わず、自分のことをしゃべりそうになる、のを、堪える。ここに来てやっと好奇心から抜け出した。
塾の先生の鉄板ルール。
生徒の保護者等と私情を交えるべからず。

「あ、あああの、すいません、生徒の保護者さんとは、あんまり、その…」
「あーそっスか。俺は2回の鉢屋です。人文学科の地域研究専攻で観光系」
「いやっすいませ」
「あ、雷蔵とは父親が違うんで、そういうことなんですよ。じゃ、また弟のことよろしくお願いします」
「三郎くんもよろしくお願いします」
「ばか、何をよろしくすんだよ」
「先生さようなら」
「あ、本当、遅くなってすいませんでした」

楽しそうに2人は笑い合うと、一方的におしゃべりを楽しんで、親子基兄弟はぺこっと頭を下げて帰っていく。
ちょっと待ってくれ。あいつ、なんで名前と学部言ってったんだ。そんなの、ずるいだろ。

「観光の、はちや、って……」

覚えてしまった自分の明日からが怖い。せめて眼鏡を掛けるんじゃなかったと思ったところで、意識に擦り込まれた柔らかな笑顔は消えそうになかった。









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