こんにちは、と言われ、反射的に、不破ならしばらくいない、と返したのが間違いだった。不破の動向なら、自分よりもはるかに、それも比べるに値しないくらい鉢屋の方が詳しい。頭の天辺から爪先まで、鉢屋は不破であり不破は鉢屋であるのだ。当然というよりは、認識外の認識。瞬間的に込み上げる罪悪感がちりりと空気を過敏にさせる。
鉢屋は、不破がいないから、来たのだ。その意図に気付くのが少し遅かった。
いいえ、と鉢屋は首を振る。
強がらせてしまった。


「みんな、そろそろ淋しい頃でしょう。穴埋めにこの顔を見せに来ただけですよ」


その目を細めて笑う表情のどこを取っても不破だった。
書物の整理をしていたきり丸が最初に気付いて、あ、不破先輩!と声をかける。つられて能勢も二ノ坪も顔を出し、柔和な笑顔の周りにはすぐにぱたぱたと下級生が集う。
つい3日前から、不破は委員会を空けていた。しばらく空けるかもしれません。ご迷惑をお掛けします、と自分にだけに耳打っていったのは、いつ戻るのか、先の見えない世界の怖さを、まだ知られるには早いと思ったからだろう。


「先輩、実習ってどこに行かれてたんスか?」

「それが港町の薬問屋に潜入して南蛮渡来のある薬を探してくる簡単なものだったんだけどね…これがなかなか門頭に気に入られてしまって」

「不破先輩、迷い癖さえなければ優秀ですからね」

「あははは、ありがとう、と言っておこうかな」

「そうだ先輩、昨日尾浜先輩が……」


手を引く下級生達に付き合い、鉢屋はいつも不破がそうするように、少し腰を落として優しく相槌を打つ。自分でさえ前提条件を与えられていなければ錯覚しそうになるほどだ、万に1つも悟られる可能性はないだろう。不破からの言付けがあれば尚のこと。
鉢屋はもともと要領がいい。それに普段から不破に話を聞いているのだろう、作業を何ら怪しまれることもなくやってのけ、こちらで図書管理表を書き付けている間に、今日は終わらないだろうと踏んでいた巻物整理まで終わりかけていた。
橙の夕焼けが差し込んでくる頃、夕食を告げる鐘が響き渡る。


「よし、もうあと少しだし、残りは中在家先輩と済ませておくから」

「はいっ」

「お疲れ様」


くしゃくしゃと頭を撫でられた下級生達は一様に顔を綻ばせる。どちらかと言えば余り素直ではないとされる方だろう3人も、不破の柔らかさには弱い。
では先に失礼します!と弾むように3人が出ていくのは、先に鉢屋が言ったように、知らない間に心にできた穴を埋められたからだ。人が人を認識するための姿形を鉢屋は欺く。必要最低限かつ最良の価値を作るため、名を偽る。


「……すまない、助かった」

「そんなつもりじゃありません。自己満足ですよ」

「不破はまだ帰らないか」

「ええ、今日の予定でしたが、どうも長くなりそうで」

「…淋しいのはお前の方だったか」


問うでもなく、暴く。
その穏やかな双眸の奥に、ゆっくりと寂寞が込み上げていくのを眺めた。夕日の影でささやかに混ざる笑みは緩慢にゆれる。余裕がないときばかり笑ってしまうのはよくわかる。意地ではなくて、ただ安心させたいという一心。


「案外意地悪なんですね。淋しい、なんて、低学年の内に忘れたかったのに」


喉から出かけた、辛かったら泣いたらいい、は、あまりにも鋭利で身勝手すぎて、隠そうとしていた感情を剥いでしまった自分には、もう慰めることすら許されていない。





似てない寄ってない









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