不安になるくらい穏やかな昼下がりだった。何とはなしに立ち寄った隣の教室にひとりだけ、鉢屋はいた。誰もいないのに、その隣に誰かがいるように見えてしまう。日常に異常を認めたくない脳内補正の賜物か。
手元に視線を落とす鉢屋のとなりに何の配慮もなく座る。忍んで行ってもどうせすぐに気付かれる。意図的に無視されるのは腹が立つ。
こうして鉢屋がひとりでいるときだけ、普段押しつぶされている鉢屋が見える気がする。鉢屋に笑顔を与えたその顔が見えなくなったとき、その瞬間が、1番苦しくなる。
骨みたいな指先が、二人称には目もくれずに書を捲る。つくづく打算的なやつだ。


「……鉢屋。雷蔵は?」

「さっきまでここにいたけど、図書室さ」

「鉢屋は行かないのか」

「兵助、私は学級委員長だが?」

「…それは知ってる」


おどけたような笑みを浮かべて視線だけがこちらに向く。不破雷蔵あるところ、のお決まりの台詞はどうしたんだ、と軽く揶揄してやりたい気持ちを止める。違う。これじゃない。少し遅れて悲しくなる。どんどん重くなっていく言葉はいまさら浮上してくれなかった。
五月の空はきっともう保たない。どんどん重くなって、どうしようもなくなった瞬間、突然ぽつりぽつりと降り出すのだ。限界を超えて降り出したらそれはもう止まらない。日の光なんて射し込まない。田畑を腐らせ、山を削り、すべてが海原に帰るまで。


「兵助、どした」

「なにが」

「皺が寄ってる」


穏やかに落ちていくのを止められない。決壊したわけじゃない。ただ、雨漏りのように、ぽたり、ぽたり、こぼれていく。
でもこんなもんじゃない。鉢屋には伝わらない。
書を撫でていた指先が眉間を撫でた。鉢屋は感情を抜いてこちらを見据える。推し量っている。その冷静さが、まるでこの波を嘲っているようで、だめだ。素直にしてくれない。


「なんか、俺って、なんで鉢屋の隣でうまく笑えないのかな」


ひしゃげた笑みに、鉢屋は何を察したのだろう。苦笑した。









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