生まれてこの方ずっと坊っちゃんやら御子息やら、最近ではどこでも若先生と呼ばれている。誰も俺の名前を気にしなくなって早20数年。


「次の人呼んでください」


目を細めて、さっきの患者の電子カルテを叩きながらその辺にいるだろうナースに声をかける。

これまでずっとエスカレーターに乗って運ばれてきた人生だった。言葉そのまんま、自分の足で歩んでなんかいない。生まれたときから天国まで続いている一本の自動上昇階段。生きているのか死んでいるのか、正直よくわからない。俺ってただの歯車なんだ、と思うこともある。次期院長ってなんだろうな、死ぬまでのハッピーエンドルートなのかな。
医者になりたくてもなれないやつなんてたくさんいる。そいつらが俺を見たら、俺はたぶん顔がなくなるまで殴られるに違いない。俺がそいつの立場だったら俺だってきっと俺の身分に腹が立つと思うし、第一俺でもないやつに俺の主観が理解できるわけないだろうし。他人の芝生は、そりゃきれいだろうよ。苦しみや辛さなんてゴミ、見えるところに落としてるわけないだろ。


「失礼します」

「はい、今日はどうしました」

「先生を見かけてからずっと胸が苦しいんです」

「じゃあ聴診器あてるから服めく………」

「はい」

「…………」


またか。俺は石のように硬直した体をぎぎぎぎ、といわせながら、患者に向いた。
同僚曰く、女に困らない顔とステータスの俺は、困らないどころか逆にとっても困っている。仕事に支障が出るくらい俺に付き纏うやつが多かった。そりゃあ俺も人だから、誰かに好かれたり褒められたりしたら嬉しいっちゃ嬉しい。が、なんでも行き過ぎたものは、有り難みや美徳を失って毒になってしまう。愛でも薬でも、それは同じ。


「お前さ」

「はあい」

「帰れ」

「うっわ先生、患者に向かってひどくね?」

「黙れお前の病気は俺には治せないっつっただろ」


と、言いながらも律儀に目の前の肋骨の浮き出た胸に聴診器を当ててしまう俺。仕方ない。生まれてこの方内科医だもの。目の前に胸があったら聴診器を当てなければいけない義務に駆られるのだ。


「先生、私は別に治してもらいに来てるんじゃないよ」


この患者のことはあまりよく知らなかった。こうも頻繁に俺の前に姿を現すということは入院患者だったことは確かだけど、少なくとも俺の受け持ちの患者ではなかったはずだ。体付きからしてまだ高校生ぐらいだろう。精神的にこんな白い牢獄なんかから飛び出してまだまだ遊びたい盛りだろうに。
なんて、何もしてやれない俺が言えた義理じゃないけど。


「じゃあなんだ。何しに来てるんだよ」

「えー?悪化させに来てんの。ずーっと先生といたいから」

「お前もう永久にベッドにいろ」

「えっ先生の…?」

「やっべぇ頭痛してきた。はい午前診終わりー」

「ええええ、ちょ、ごめん、ごめんなさい!まだ外で待ってる人いっぱいいるから!診てあげて!」


俺が椅子から立ち上がると、青年は青白い顔をさらに青白くさせて必死になる。受け答えがいちいち捻くれているくせに案外素直なところがあるこいつはなかなかいじめ甲斐がある。鼻歌混じりにコーヒーを淹れに行く振りをすれば、ぎゅう、と後ろから抱き止められた。
必死すぎて吹き出すのを堪える。そりゃあそうか。


「……はいはい、わかったらいつものベッド戻っとけ。あとで見に行ってやるから」

「ん、待ってる。久々知先生」


頭を撫でると青年は歳相応にはにかんだ。この冷たくて軽い身体のどこにも病魔はもういない。
こいつはもう自由になっていいはずなのに、俺がこいつを縛り付けてしまっているのだとしたら、本当に俺はやっぱりその辺の医大予備校で、あーあやっぱ医者なんか辞めたいって言って顔がなくなるまで殴られて来たほうがいいと思う。

何もかもが現院長にそっくりだと言われている俺を、きっと親父と勘違いして慕ってくれて、未だ成仏できないでいるこいつのためにも。





礼儀知らずの不老不死









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