腹を撫で上げるような感覚にぞっとして食満は距離をとった。目の前の友人は果たして人間なのか。ろ組は得てしてそういう変人が多かった。目の前の化け物を筆頭にひとつ下の鉢屋など、変人も変人、気違いに近い。
対しては組は忍者として致命的な何かを抱えている者が多かった。そしてその欠点の分、何かに秀でている。ただその良い部分は忍者の理想には不要なことが多かった。


「何やってんだ!落ち着け馬鹿!」

「任務だ。割り切れよ、留三郎」

「だからって…」

「情けで敵を生かすならお前も敵だぞ」


誰のために、何をすべきか、選べ。
七松は食満に一瞥をくれ、また右手の苦無を突き付ける相手を見据えた。それは紛れもなく可愛がった後輩であり、認めたくないが今は敵国の忍であった。食満は動けなかった。夜風は腐っている。苦無を逆手に持ち変える目の前の友人がとても人とは思えなかった。


「…死ぬ気もないなら泣かないように目を瞑ってろ」


七松がその腕を振り上げた、ところで、食満は目が覚めた。早鐘が鳴るような心臓音がうるさかった。浅い呼吸を繰り返しながら、いまのは、と食満は思わず呟いた。


「ああ、起きたか」

「……仙蔵」

「ひどいうなされようだったな。見ていていておもしろかったぞ」


衝立てから顔を覗かせた仙蔵は優しく笑う。どうやら食満は忍術学園の保健室にいるらしかった。長い黒髪を絹のように滑らせて仙蔵は食満の額に触れた。鈴が鳴るように小さく涼やかな所作だった。その死人のように冷たい指先に思わず肩が跳ねた。


「なんだ…ずいぶん熱いな。指がとけてしまった」

「、は?」

「ほら、お前にとかされてしまったよ、留三郎」


立花は軽い笑みを口元に添えて食満に手を見せる。蝋のようにどろりと変形しているそれを食満の目が捕えた瞬間、立花は食満の顔を掴んだ。爪が皮膚を裂こうとする。驚いて食満が立花の腕を掴むと、それもまたどろりとした感触になって、立花が声を上げる。
恐怖と混乱に襲われて食満が振り払うように飛び起きると、その拍子に立花は食満に抱き付いた。反射的に押し退けようとした食満に構わず、立花は頬を寄せて耳元に冷たい唇を押しつけた。


「ってめ、」

「ぜんぶ、お前が意気地なしのせいさ」


どろり、と爛れたような笑みを浮かべてそのまま溶けていこうとする立花を食満は思い切り突き飛ばした。


「っ…なん、なんだよ」


どさり、と仰向けに倒れたのは潮江だった。赤黒い血を地に広げ、胸に日本刀を儀式のように突き立てている。すでに辺りは保健室ではなく空気の濁った戦場の片隅だった。
食満は込み上げる吐き気から首に触れた。その時首にさっきと同じ、ぬるりとした蝋の感触を覚えて手のひらを見れば、血だった。濃く深い赤だった。


「、お……俺じゃ、な、…」

「そうだな、お前のせいじゃねぇ」

「っ、」

「悪いのはお前以外の、誰かだ」


むくり、と口から血を流す潮江は何かに従うように起き上がる。血は止まる様子もなく動いた分だけ服を濃く染め、何も見ていない虚ろな目には、何も受け入れることもできない食満が映っていた。


「生きてるだけって、そういうことだろうが」


潮江が口を歪めて笑った瞬間、食満は走りだしていた。
完全に夢だ、と認識して走っていた。さっきの友人たちが胸にこみあげてきて目眩がした。どこに走ればいいのかわかっていない。まだこの悪夢の中に出てきていない友人がいることも食満は認識していた。
起きなくてはならないと直感していた。そしてその鍵は友人たちが持っていることも頭のどこかで知っていた。


「そうだろ長次!」

「……『うさぎを見つけても何の解決にもならない』…」

「何の話だ?ァア?」

「『この夢は誰の夢だと思う?』」


忍術学園の図書室、そのほこりっぽい部屋の一角に中在家はまるで主のように座っていた。それこそ現実と寸分の差異もなく、むしろ日常よりもはるかに現実に近い存在感と空気を纏って中在家は膝の上に巻き物を広げていた。すべてが白い静謐な世界の中で、中在家の言葉だけが音として在った。
食満が詰め寄っても中在家は顔を上げずに巻き物を小さく強い声で読み続ける。


「…『お前は探しているのか?…それともただ逃げているのか?』」

「何が言いたいんだよ!」

「『目の前の人間を殺さなくてはならないとして、果たして理由さえあればお前は殺せるのか?生きる意味があるから仕方なく生きているのか?』」


中在家は一瞬目を閉じて、食満を見据えた。
ここではない、と食満は直感した。出口はやはり、あの部屋にあるのだと、あの部屋に行かなくてはならないと、逸る心のままにまた走りだしていた。

さっきから逃げてばかりだった。
見たくないものから目を反らし、拒絶したいものを突飛ばし、血腥い道を振り返りもせずに駆け抜け、そして板間の軋む走り慣れた細い回廊を走っていた。
何も、何一つ持たずに走っていた。始まりがなければ終わりはなかった。
夢なんていつもそんなものだった、と食満はすこし笑いながら足を止める。
その部屋には、すべてがあった。


「おかえり留三郎。そんなわけで選んでいいよ。生きたいのか死にたいのか」

「生きる」

「うん、よくできました」





食満が起きたのは朝だった。
朝日は白くて、囀りが羽ばたき、起き上がれば身体と骨と傷口がすこし軋んで、足の上では泣き疲れた友人が眠っていた。
目を閉じて始まり、目を開けて終わった脳内完結の夢を、食満は覚えてなどいない。




無彩色と撫でる指先









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