それは義務ではない。幸村が走る必要はない。幸村が走る理由ならあるが、それは幸村にとっての幸せではなかったし、望んだ未来ではない。


「旦那ってバカだよね、ほんとオヒトヨシ」

「それは某が一番わかっているつもりだ」

「ふふ、少しは賢くなったね」


相変わらずバカだけど、と佐助は小さく笑いながら身体の力を抜いた。魂が浮き上がるかのように佐助の身体は意思を失って大地に引き寄せられる。
幸村はそれをほんの少しの挙動で受けとめた。幸村の腕の中にあることが当たり前であるかのように、佐助の全部はその場所で正しく静止していた。呼吸や鼓動はもちろん、傷口の血や、風より軽い髪でさえ、佐助は動かない。

幸村はしばらく息をしなかった。心臓すら止まった。もちろんそんなはずはないのだが、今し方、幸村はそうやって時間が止まった瞬間があったことを知った。思考の存在しないその空白の数刻のことを、幸村は恐らく今世、永遠に忘れることはないのだろう、と頭のどこかで思った。

幸村は走りたくなかった。
本当は伊達との邂逅に陶酔していたかった。自らの時間は自らの幸福ために費やしたかった。佐助の死などあってほしくなかった。
それでも幸村が走ったのは幸村が自分の幸せより、欲のない従者の最初で最後の願いを選んだからである。









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