振り下ろした苦無は三郎の頬を掠めて畳に突き刺さる。その目を潰すぐらい訳無い。三郎は避ける素振りを見せなかった。平然と笑って、どうした、畳が憎いのか、と軽口を叩いて怒りを助長する。刺せるものなら刺して御覧と、その傲慢な狐は嗤う。

「お前が決めればいい。私はいつ殺されても構わない」
「殺したいわけねぇだろ」
「違う、お前の気持ちじゃない。私はお前の覚悟を問うているのさ」

長い指先が慈しむように頬を撫でてくる。馬乗りになった三郎の腹は妙に柔らかくて、いっそ今すぐ剥いで鳴かせてやりたくなるが、そういうお茶目な時ではなかった。はち、と三郎が甘く名前を呼ぶ。俺の名前は果たしてそんなにぞくぞくする響きだっただろうか。もうだんだん我慢も面倒になってきた。

「私を殺さないとお前、死ぬよ」
「なぁ、ちゅうしていい?」
「あやばい電波きた」
「ごめん、やっぱ俺死ぬ。お前を殺すくらいだったら俺死ぬよ」

ちゅう、と背を丸めて唇に口吻けをすると三郎は顔を歪めてまた俺の名前を読んだ。はちざ。ととても残念そうに。

「馬鹿なこと言うな。なら私は自害する」
「待てよ、俺が決めていいんだろ」
「私はお前に死ぬ覚悟をしてほしかったわけじゃないんだ。私は、」
「うん、そんなの知ってる、三郎」

さぶろう、と言い聞かせるように名前を呼んだ。さっき天井越しに聞いた三郎の名前は不破だった。もう終わっていた。三郎はもう鉢屋じゃなかった。
わかっているつもりだった。もうあの頃とは違う。でも。きっと鉢屋を捨てた三郎を、不破雷蔵は泣いて怒るに違いない。
雷蔵の暗殺が今の俺の任務だった。此処へ来るのも辛かった。これが忍の運命だから、なんて、割り切れるわけがなかった。捨て切れない未練と一緒にやっとの思いでとにかく此処まで来た。でも三郎がいるということは、そういうことだ。俺はもう一生雷蔵に会えないのだろう。
三郎は親指で俺の睫毛をなぞった。ぞわりとする。そのまま親指を押し付けられれば俺の視界は半分なくなっただろうに。

「なんで言わなかった?」
「言って理解できたか?」
「いいや。でも教えてほしかった」
「傲慢だよ、八左。私はもう雷蔵なんだ。聞いただろ?もう遅いんだよ」
「それがいやなんだ。三郎はいつも一人で解決しようとする」

顔を撫でる手に掌を重ねる。三郎、なぁ三郎、三郎。と嫌がらせみたいに何度も何度も名前を呼んで、そっと首元に頬を寄せた。
馬鹿野郎、お前が泣くなよ。

「なぁ八左」
「なんだよ。何言ったって俺は」
「私はせめて、雷蔵のまま死にたい」

お願いだ、こんなことお前にしか頼めないから。
小さく微かに耳に吹き込まれたその言葉に俺は一体どうしたらいいんだろう。かつて三郎が俺に頼み事をしてくれたことがあっただろうか。いやなかった。じゃあこれがはじめてのおねがいか。甘ったるい声しやがって。叶えてやりたいなぁくそ。
ああだめだ、俺も涙が止まらない。



愛するための爪じゃない









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