その日の委員会の報告書を綴る不破の胸にあったのは、ひとつの疑問だった。
鉢屋は不破に甘い。お前は忍として甘いとよく先生に叱咤される不破自身よりよっぽど、その倍の倍の倍は甘い。誰よりも鉢屋のそばにいる不破にはそんなことは誰よりもよくわかっていた。鉢屋も不破が知っていることなどわかりきっているだろう。だからこその互いの甘えであり互いの全力の信頼、全身の絆であった。

であるからして不破が鉢屋に疑問を抱くこと自体がまず珍しかった。
たくさんの視点でから、よく決断までに時間のかかる不破にとって、鉢屋は意志決定におけるひとつの指針であった。2択であればそれを1つにするし、選ぶべき答えのないときは自らがありとあらゆる可能性を引き出して不破の答えを導き出した。鉢屋はそうしてよく、私は残念ながら雷蔵ではないからね、と満ち満ちた表情で笑った。
不破は鉢屋を信じていた。不思議に思うことなど何もないと不破は思っていた。故に不破は鉢屋に疑問を持った自分自身が不思議で不思議で仕方がなかった。

不破が疑問を持ったのは鉢屋が久々知にたまに見せる辛辣な態度だった。
鉢屋は無意味に人を怖がらせたり罵ったりすることはなかった。その行動の大半が他人に理解されない行為であったとしても、不破には大体その本意が読み取れるので、まったくもうしょうがないなぁお前は、といつもにこにこと笑って見守るのだったが、久々知に対してのそれはまるで邪気の塊のような態度だった。
鉢屋の中にある真っ黒な感情さえ不破は知り尽くしていた。それが溢れる瞬間もなんとなくわかっていた。そして不破にはそれを止める術があったし、それを受け止めることもできた。
けれど久々知に対しては、何の前触れもなく、それが向けられるのだった。気付いたときには嵐が去ったかのように静まり返っているか、久々知の感情が氾濫して竹谷が鉢屋を殴りつけた後だった。

「兵助は悪くないんだ」

竹谷にひとしきり宥められた後、鉢屋は決まって部屋の真ん中でぽつりとそう言う。
膝を抱えてうずくまってそれを言うのなら、まぁまだ可愛いげもあるものだが、鉢屋の場合はひどい猫背で首をぐるりと横に捻って腕をぶらぶらさせていた。その上、目はかっ開かれていて薄く笑っているからたまったものではない。黒が在った。ただ純粋な黒い何かがそこに在った。久々知を宥めて部屋に帰って来た不破は、思わず言葉を失って竹谷を呼びに行ったほどだった。

(それはたまに、ほんとにたまに、の話、なんだけど)

それは四季に一度、あるかないかの話だった。それに比べれば、竹谷と鉢屋の殴り合いなど週に一度はあったし、不破と鉢屋の言い合いなど日常茶飯事だった。
何が引き金なのか、何が必然なのか、いつもわからないままにその日を迎え、終わった後にはまるで何もなかったかのように翌日を迎えた。実質なんでもないことなのだろうが、それがまた、不破には理解しがたいことだった。

「やあ雷蔵。委員会は終わったか」
「ん、ああ、三郎」
「またぼうっとして、何を悩んでいたのやら」

ちょっと君のこととかね、とは言わずに、不破は天井からぶらりと逆さまに現れた鉢屋に微笑んだ。
一番最近にそれがあったのは確か春過ぎのことだったので、蝉の姦しい夕暮れに、きっとそろそろ、と不破は何とはなしにそう思っている。しかし当の鉢屋にいたっては毎日この調子であり、久々知を前にしても狂気が飛び散るような雰囲気はどこにもなかった。
それさえ演技なのかもしれないな、と最近不破は思うようになっている。
鉢屋の秘密主義など今に始まったことではないが、不破は鉢屋に嘘をつかれたことはなかった。だからこれは演技だろう。騙すことが目的ではなくて、見せることが目的のそれは、鉢屋が不破に送るひとつの合図なのだろう。
全てが理解できると思うな、という風刺か、自分は異質な存在であるという自己主張か、はたまた久々知兵助という人間を破壊してその脆さを見ている者に刻み付けているのか。

「雷蔵」
「なぁに」
「いま、ひどいこと考えてるだろう」
「ううん。別に」
「うそだ。目が赤い」
「え」
「うそだよ」

でもひどいことは考えてたね、と天井からトンとしなやかに下りた鉢屋は、まるで嬉しそうにそっと呟いた。

(僕はただ、君が理解したくて)









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