「フィップス様のお化粧の練習相手になってると伺いましたよ。私もやってもらいたいくらいだわぁ」
フィップスが……道理で。
化粧云々という近侍の変化が相方の仕業であることは妙に納得だ。
アイツのことだ。都合よく身近にいた名前を化粧の練習台として使ったに違いない。
「それにしても、あんなにお綺麗になるなんて」
だけど、気にいらないのはそこじゃない。
女がめかしこむ時は大抵……
「名前さん 恋でもしてらっしゃるのかしらね」
***
「やぁ、名前!」
宮殿の閑静な広い廊下を歩いていると後ろから呼び止められ、振り返ると波打つ黒髪の美しい青年が手を振って立っていた。
「ギルバート様!お久しぶりです」
「キャンベンディッシュ侯爵家でのサロン以来か?用があって宮殿に立ち寄ったら、君を見かけたから思わず大きな声を出しちゃったよ」
そう言って、彼は頭の後ろに手を当ててはにかんで見せた。
大学を卒業したてのまだ笑顔が初々しい彼は、政治家の卵であり社交界に度々出入りしている。
グレイの近侍として、華やかな世界を連れ回されることの多い名前はこういった世界の住人たちと知り合う機会も増えていった。
「ところで、君は12月の第三土曜日は空いてる?」
「えっ?」
言いながら、彼はジャケットの内ポケットから少し皺になった白い封筒を取り出して見せた。
「実は、ライシーアム劇場のチケットを2枚手に入れたんだけど、一緒にどうかなと思ってさ」
彼の手には確かにライシーアム劇場のチケットが2枚握られていた。
その日の主演は人気の歌姫アイリーン・ディアスらしい。その上、席は特等席。
このチケットを手に入れるのは容易なことではなかっただろう。
「19時からの公演だけど、どうかな?」
『第三土曜日はバッキンガム宮殿での舞踏会だよ』
聞き覚えのある声のする方に目をやると、その人物は明らかに不機嫌そうな顔で階上からこちらを見下ろしていた。
「……その日は私は欠席の筈では?グレイ伯爵」
『いま決まったの、君はボクのパートナーとしてね』
「だけど、私は夜会服を持っておりません」
『君一人の分くらいウチで用意させる』
「ダンスの素養もありません」
『練習すればイイじゃん。兎に角、その日は予定が入っちゃったからデートはお預けだよ』
名前は呆れたようにため息をついた。
仕事上、彼の気まぐれに付き合うのは慣れっこだったが、まさかここまでとは……。
全て言い終わると、グレイは美しいシルバーブロンドを翻して去って行った。
その背中を眺めながらポカンと呆気に取られたままのギルバートに名前はおずおずと声をかける。
「ギルバート様、折角のお誘いなのですが……。当家の主人が申し訳ありません」
頭を下げると、黒髪の好青年は苦笑いで肩をすくめた。
「……仕方ない。また次の機会に誘うとするよ」
二人の若者の会話を背に受けながら、グレイは誰にも聞こえないように小さく舌打ちした。
(……次なんて、あるわけないじゃん)
「水夫たちは美しい歌声に惑わされて」
続く??
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