その目の中には誰がいますか?


あの人が大地さんを訪ねて体育館へやってきたとき、私は初めてその視線に気がついた。
主将会議のときのプリントを忘れていたからと長い髪を耳に掛けて微笑む姿を見て綺麗だなと思った。

「わざわざすまん。ありがとう」

そう言う大地さんの顔には感謝と少しの戸惑いの色。
二言三言交わしてそれじゃあまた明日ね、と身を翻すあの人の背中を大地さんはしばらく見つめていた。
優しく、慈しむような眼差しで数秒。その後振り向いて私と目が合うと、パッとそらして「手ぇ止まってるぞ!レシーブ!」と声を響かせた。




「……え?それだけ?それだけで浮気を疑ってるのか?」

不安の種を田中に打ち明けると、一瞬間を置いてから卵焼きを口に放った。

「それだけって……二人で楽しそうに歩いてるのも見かけた」
「どこを?」
「……廊下を」
「同じクラスの人だろ?そんなんで疑われたら大地さんだってたまったもんじゃないっての」
「つ、冷たいこと言わないでよ。それにただの友だちに向けるだけの目じゃない……と思う」
「大地さんに限ってそれはねえよ。どうせお前の思い過ごしだって」

私が震える声で大地さんに思いを伝えたのは三ヶ月ほど前。
突然付き合ってほしいと言われるなんて全く予想していなかったっていうのは反応で丸わかりで、少し考えるような素振りを見せてから静かに頷いてくれた。
「ありがとう」そして「俺で良かったら」と。

「けど私と違ってスタイルが良くて優しそうで綺麗な人だから……」
「まあそりゃ、麗しの潔子さんには及ばないにしろ確かにあの人はキレーだよな。お前とは比べ物にならないでででっ!いてえよ!そういうとこですぅ!」
「聞いてくれてっありがとうっ」
「全っ然ありがとうの顔じゃねえっ!つーかそんなに気になるんなら本人に直接聞いてみろよ、あの人は誰ですかって」

ポコポコ叩く手を止めた。
それが出来たら苦労しないっていうのに。馬鹿。
田中は少しの沈黙の後「あーっ!」というイライラした声と共にガシガシと頭を掻いた。

「ったくもーしょうがねえなぁ!」
「えっ」

腕を掴まれ強引に教室を連れ出されてしまった。
どこに行くんだろう?なんて鈍い私ではない。
血の気が引いて行く中、私の「離して!」「嫌だ絶対ヤダ!」は全く聞き入れてもらえなかった。


三年生の教室に着く頃にはすっかり意気消沈していた。
同じように中を覗く勇気はさすがになくて、壁にもたれてできるだけ気配を消した。
そんな状況でも幸いなことに大地さんは教室にいないようだった。

「用あるんなら伝えとくかー?」

スガさんの問いかけに「いや、急ぎじゃねえんで大丈夫っす!」と元気に返した田中は私に向かって残念だったなーと呟いた。寧ろ救われた気分だ。

「……今日部活始まる前に呼び出して聞いてみるか」
「えっ、いい!いいよもう!」
「はぁ?そうでもしねえとお前ずっとグズグズするだろうが」
「だ、だって……」

もしも本当にあの人に気持ちが移っちゃって私を要らなくなっちゃったとしたら。
大地さんの笑顔が、心が、あの人だけのものになっちゃうとしたら。



「あれはぜってー怪しいよなぁ」


通りすがりざまの会話がふと耳に入ってくる。
時折後ろを振り返りながら何やらコソコソと楽しそうだ。

「彼氏いる女とそんなしょっちゅう二人でいないよなぁ?普通は」
「もしかしてお前知らねえの?」
「なに」

「澤村の奴確か中学のときから滝川のこと好きだったんだよ」

あわよくばって思うだろ、男なら。
まあ俺も滝川はアリ。
だろー?


隣にいる田中が気まずそうに「おい」というのが聞こえたけど、私は返事どころか口を動かすこともできなかった。

あの人たちは誰の話をしていた?
中学の頃から好きだった?……誰が?

「っ、おいどこ行くんだよ名字!」

自分の階も通り過ぎてひたすらに階段を駆け下りた。
乱れた呼吸と一緒に、ドロドロになったこの感情が余すことなく溢れ出ていけばいいのに。
私の中に何も残らなければいい。綺麗な長い髪も慈しむような眼差しも全部、消えてなくなればいいのに。

「待てって……なぁっ!」

乱暴に腕を掴まれて止まらざるを得なかった。

「……きっと何かの間違いだって。もしさっきのがホントなら名字と付き合ったりしねえだろ?」
「ごめん田中、一人にさせて」
「あんなの真に受けんなよ!?こーいうのはちゃんと大地さん本人、に……」

田中の言葉が萎んで消えた。
私の後ろの一点を見つめるその目線を追えば今一番会いたくないその人がいて、私も同じように言葉を失うことしかできなかった。


大地さんとその隣にいるあの人が目を丸くしている。
二人の後ろには空き教室があるだけだ。
こんな所で、二人きりで何をしていたっていうの?

「澤村くん?えっと……私行くね?」
「あ、あぁすまん」

柔らかそうな髪を揺らしてあの人が通り過ぎていく。
香ったのがあまりにもいい匂いで堪らなく泣きたくなった。

「どうしたんだ二人とも、こんなところで」
「……大地さんこそ何してたんすか。今の人は」

「あの人のこと好きなんですよね」

田中の声を遮って言い放ったその言葉は今までずっと心にあったくせに、いざ口にしてみると随分とリアルで、重くて、自分自身を苦しめた。

「大地さんは優しいから私なんかと付き合ってくれてたんですか。本当はあの人が好きなのに、可哀想だからってオーケーしてくれたんですか?」

何か言いたげな大地さんだったけど思い留まったらしく、固く口を閉ざしてしまった。


「……もういいです」

もう、うんざりだ。


「無理に私といる必要なんてないです。って、言われなくてもそばにいてくれる気はなかったんでしょうけど」

『浮気を疑ってんのか?』と田中に言われた事を思い出した。
違う、浮気なんかじゃない。
そもそも私には気がなかったんだから。そんな私に出来ることと言えば潔く身を引くことだけだ。
……邪魔者なのは他の誰でもなく、私だ。


「終わりにしましょうか」
「……」
「部活は今まで通りちゃんとやります。みんなに迷惑かけたりは絶対しません。今までありがとうございました」


何も言ってくれないのが何よりの答えだ。

唇を噛み締めて踵を返した。
もしかしたら大地さんが追いかけてきてくれて私の腕を掴んで、引き寄せて、違うんだ、あれは誤解だと言ってくれるんじゃないかという淡い期待を抱いたけれど、すぐに自分の愚かさを思い知らされる。

大地さんはいつまでも来てくれなかったし、いつの間にか隣を歩いていた田中がガシガシと頭を撫でてくれたから涙が零れるのを止められなかった。

知らなかった。終わるときってこんなに呆気ないんだ。
何も言わずに田中は私のそばにいてくれた。予鈴が鳴ってもその場を動こうとしない私の隣に腰掛けてただ、泣きじゃくる声を静かに聞いていた。



それから数日、いつも以上に真剣に部活に取り組む私を西谷が「最近なんか燃えてんな?」と笑った。
別に大地さんにちゃんとすると言ったからではなくて、私がグチャグチャな感情でいることをみんなに悟られたくなかった。
大地さんとは一度もこれといった話をすることはなかった。でも私たちが付き合っていたことは三年の先輩方と田中くらいしか知らないし、時々スガさんが心配そうに目配せしてくること以外は思いの外普段通り過ごすことができていた。

「龍!坂ノ下寄ってこーぜ!ガリガリくん食いたい!」
「あーノヤっさん悪い。今日名字と帰るからこの次な」

その言葉に縁下と木下がぐるんと振り向いた。

「何か最近田中の名字率高くない?」
「こりゃ何かあったな?さあ吐け」
「何もねーよ。着替えたら門のとこで待ってろ、すぐ行っから」
「う、うん」

大地さんがこっちを見ているのがわかって反射的に顔をそむけてしまった。
わざわざみんなの前で言わなくたっていいのに、と一言文句を言ってやろうと思っていたけれど。



「あのさー、気ィ張りすぎじゃねえか?」

二人で歩く帰り道でそう顔色を伺われたらそんな気もなくしてしまった。
「だってさ」と返す。

「何かに夢中になってないと考えちゃうんだもん」
「それはまあ……あー、しゃーねえな」
「しゃーないよ」
「けどあんまり一生懸命にやってっとさ、ふとした時になんか……しんどくなんねえ?」

終わりを告げたからって付き合っていた日々が心からすぐに消えるわけじゃなくて。
しんどくならないって言ったらそれは紛れもない嘘になる。けれど。

「……何でアンタに彼女ができないのか私にはわかんない」
「はぁ!?な、なんだよ急に。……まあそれはきっと世界が俺の格好良さに追いつけてないせいだな」
「ソウダネ……」
「哀れみやめてください……!!」

こうやって私と同じ歩幅で歩いてくれて、話を聞いてくれる存在がいるってわかってるだけでどうにかやっていけてるよ、なんて言ったもんなら鼻高々にふんぞり返る姿が目に浮かぶ。
わざわざ口にはしないけど、この気持ちが伝わればいいと思いながら大口を開けて笑い合った。


──翌朝、田中さんと付き合ってるんですか!?と興奮気味な日向を落ち着かせるのに随分かかった。
その大きな声は体育館にいる全員の耳に間違いなく届いているんだろう。恐る恐る大地さんを盗み見るといつも通りにアップしていてモヤモヤした。

……大地さんを嫌な気にさせたくないから聞かれたくないと思っていたのに、気にしていない様子でいることを面白くないと思うなんて私は矛盾している。

『もしや田中と』疑惑は朝練後の教室にも浮上していた。
私が否定するよりも早く田中が、「言っとくが俺は美人と付き合いたい」とか言い出すから思いきり背中を蹴ってやった。
それで、ほらやっぱり誤解だったか、と納得するクラスメイトたちも一人残らず殴ってやりたい。

……こうやって少しずつ大地さんといた日々が過去になっていけばいい。
時間が経てば傷も癒えて、私の中で膨れ上がってる大地さんへの気持ちがどんどん萎んでいけるように。
そうなることを望んでいるのにどこか焦っている自分には気付かないふりをした。





「名字、ちょっといい?」

そうスガさんに声をかけられたのはあれから一ヶ月が経とうとした頃だった。
多目的室の掃除を終えて教室に戻る途中に手招きをされた。友だちには先に戻るように伝えてスガさんの背中を追った。今日は部活が休みのはずだけど私に一体何の用があるんだろう。

「どうかしましたか?」

あー、とスガさんが言葉を詰まらせるから何の話をされるのか予想がついてしまった。
私の顔が曇ったのをスガさんも気づいたらしく、「大地のことなんだけど」と絞り出した。

「詳しいことは知らないけど別れたってのは聞いてるし、二人のことだから俺がとやかく言うもんじゃないってわかってはいるんだけどさ……大地の奴ああ見えて結構引きずってて」
「……え?」

何をわけのわからないことを言っているんだ、と思わず口にしてしまいそうになるのを慌てて呑み込んだ。

「あんまり本調子じゃないのか、教室でもぼーっとしてるから先生に注意される回数とかも増えてるんだよ。この間なんて一切ノートとってなかったりさ。受験生だってのに」
「そのことと私が関係してるとは限らないじゃないですか」

今度はスガさんが『何をわけのわからないことを言っているんだ』って顔をした。

「落ち込む理由が名字とのこと以外に何があるの?」
「……大地さんは私のことなんて好きじゃなかったんですよ」
「んー、なんでそう思ってるのかは俺には全然わかんないけど……名字と付き合ってるときの大地はずっと名字のことばっかり見てたけどな」


ドクリ。
あまりに大きく音が鳴って思わず目を伏せた。

「…………すみません。あの、私そろそろ」
「あー急にごめん。気をつけて帰れよ?」

軽く頭を下げて足早に立ち去る中ぎゅうっと拳を握った。
……信じられるわけがない。あんなの。
だって大地さんが好きなのはあの人じゃないですかと言ってしまいそうだったけど、言ってしまえば自分の言葉でまた傷つくのが目に見えていた。

『ずっと名字のことばっかり見てたけどな』

(……馬鹿みたいだ)

一瞬でも揺らぐなんて。
私のことを見ていないことなんて私がよく知っているじゃないか。

部活が休みで本当によかった。
こんなグズグズな気持ちで行ったってみんなに迷惑をかけてしまうだけだ。早く帰って気持ちをリセットさせよう。
また明日頑張らなきゃ。

明日も、また。忘れる努力を。



「……え」


────足が動かなかった。

私の視線の先にある踊り場で寄り添っているのは大地さんとあの人だった。
ぽろぽろと涙をこぼすあの人の頭を撫でながら、苦しそうな顔をしていて、立ち尽くす私と目が合うと目を見開いてその手を離した。

「名前」

頭の中がぐちゃぐちゃで。何が何だかわからなくて気がついたら逃げ出していた。
別の階段を駆け上って教室へと向かう。久々に呼ばれた私の名前を思い返しては、込み上げてくる熱いもののことは考えないようひたすらに走り続けた。

一つだけわかったことは、やっぱり、私は大地さんにとっての一番ではなかったということだ。



「おいおいどうしたよ。そんな血相変えて」

教室には田中がいた。鞄を背負おうとした格好のままの田中と視線が交わると、靄がかかった視界が嘘みたいに晴れていって、途端に張り詰めていたものがパチンと弾けた。

「田中ぁ……」

子どものように大粒の涙を溢れさせる私を見て田中はギョッと目を見開いている。
戸惑っている田中の元へ数歩、駆け寄った時だった。

ぐいと強引に体を引かれたと思ったら力強い誰かの腕の中にいた。
誰かの、だなんて自分でもずいぶんと回りくどく思ったものだ。この腕や香りを他の人と間違うはずなんてないのに。


「田中、悪いけど返してもらうから」

大地さんはそう言って私の手首を掴むと強引に連れ出した。
階段を下りて一体どこに連れていかれるのかと思っていると、『あの』空き教室が見えてきて咄嗟に手を振り払った。


「……何なんですか今さら。あの時は何も言ってくれなかったのに。追いかけてすらくれなかったのに」

大地さんは落とした視線を私へと戻してやっと口を開いた。

「名前が田中といるのを見たくない」
「なっ……自分は他の人といるくせにっ。私の事なんてなんとも思ってないくせに!何でそうやって……!」
「好きだからだよ」


一度言葉に詰まってしまうと次に続いてはくれなくて。


「名前はもう俺の話なんて聞きたくないかもしれないけど、それでも、聞いてほしい」
「……」
「中学の頃からずっと片思いしてたのがさっきのアイツだった。気持ちを伝えられないまま卒業して、偶然同じ高校に進学できて。……俺がいつまでもグズグズしてるうちにアイツは他のやつと付き合い始めてさ」

「名前が俺を好きだって言ってくれたあの日もホントはまだ……アイツのこと忘れられなくて。でも必死な顔して伝えてくれた名前といつまでもグズグズしてた自分を重ねて……オーケーした」


なにが、『好きだから』だ。
やっぱり大地さんは初めから私のことを好きじゃなかったんだ。

じわりと涙が滲んだのを見られたくなくて背を向けた。


「最近になってアイツから彼氏とのこと相談されるようになって正直、めちゃくちゃ浮かれて。名前が傷ついてることに全然気づけなくて。……あの日俺に言ったろ、アイツが好きなのかって。可哀想だからオーケーしたのかって。その通りだと思ったから、何も言えなかった」

大地さんは「でも」と続けた。

「耐えられないんだ。今まで隣にいてくれてた名前が俺じゃない奴と一緒にいると思ったら頭がおかしくなりそうになる。今誰とどうしてるだろう、って、一日中気が気じゃない。今さらだってわかってるよ。勝手なのもわかってる。けど……」


恐る恐る伸びてくる手を拒めないのが私の弱さだ。


「…………何でさっき、二人でいたんですか」
「彼氏と上手くいかなくて別れたって話を聞いてた」
「置いてきたらダメじゃないですか」
「いや。いつまでグズグズしてるつもりだって怒られたよ。今追いかけないでいつ追いかけるんだって」

優しく大地さんの腕の中にしまい込まれてやっと気がついた。
大地さんの心臓はありえないくらい早く脈打っていて、肩を抱く手は小さく震えていた。


「……私のこと、好きですか?」

「……好きだよ。すごく。どうしようもないくらい、好きだ」


その言葉が聞けただけでいいと思ってしまう私はきっと、どうがんばったってこの人を嫌いになれないんだ、といつまでも忙しない胸に顔を埋めた。




「なー?だから言ったべよ」

「名字から連絡来る度に口元ニヤニヤさせてた奴が名字を好きじゃないってありえないって」

次の日、上手く仲直り出来たことを伝えるとスガさんはにんまりと笑みを浮かべた。
びっくりして隣を見ると大地さんも驚いた顔をしていた。本人も初耳だったらしい。

「いつまでも初恋に囚われてる気になってたかもしれないけどさ、気づいてなかっただけで、大地の気持ちはちゃんと前に進めてたんだよ」

じゃなきゃあんなに田中に嫉妬しないだろ、と笑うもんだから「そんなに私が好きですか?」とわざとらしく問いかけてみれば。
「……後で覚えてろよ」なんて顔を真っ赤にして言うから、私はいつまでも大地さんから逃れられないんだと思った。


end.
2019/05/29
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
とてつもない時間をかけてしまって大変申し訳ございませんでした!
グズグズ大地さんになってしまいましたが少しでも楽しんでもらえたら幸いです。
リクエストありがとうございました!
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