私だけの雨が降る


湯気の出るマグカップを二つおぼんに乗せて、いつも当たり前に上る階段を進む。上がってすぐ右の部屋。ガチャ、と音を立ててドアを開けば、部屋を出る前と同じように正座をした五色工がいる。太ももの上でぎゅうっと握られたままの拳がおかしくて、「楽にしていいって言ったのに」と笑いながらココアをテーブルに置いた。


もう進級も目前。「授業内容がさっぱり理解できなくなりました……」と青い顔をする彼に、「じゃあわからないところは教えるからうちに来る?」と私から提案した。
別に図書館でも良かったけれど、人がいると彼も気軽に質問できないのではと思って言ってみた。
放課後は部活動で忙しいし、休みだって少ない。寮生の彼とは一緒に帰ることもできないし、恋人同士になってからゆっくり過ごした経験もない。週末は珍しくオフだと言っていた事だし、勉強しつつ休憩時にはまた他愛のない話ができる、良い機会だと思ったから。

五色工は私の言葉をゆっくりと咀嚼したのち、たどたどしく「いいんですか」と聞いてくる。
誘ったのは私なんだから良いも何も。学校まで迎えに来ようかと言えばブンブンと首を振られ、私の家と学校のちょうど中間地点にあるコンビニで待ち合わせる約束をした。


そして今日、待ち合わせ場所にやって来た五色工の手に鞄とは別に紙袋が下げられていたので聞いてみれば、「手ぶらで人様のお家にお邪魔するのはちょっと」と優等生な回答をもらった。

「ご両親、プリンお好きですかね?」

本当に真面目な子なんだなぁと感心してお礼を言う。プリン好きだよ、大丈夫。それに今日はどっちも仕事でいないから緊張しなくていいよ。そう伝えると五色工はピシッと固まってしまった。
それからずっと、こんな調子だ。





カチコチと時計の音がやけに大きく聞こえる。
とりあえず私は問題集、彼は出された宿題に取り組んでいる。わからないところがあれば教えるから言って、ときちんと伝えたはずなのだけど、一度も声がかかることはない。集中しているのかと思えばシャープペンが走る様子もない。一人だけ黙々と解いてしまっていたことを反省しつつ、ペンを置いた。

「どこかわからない?」

手元を覗き込むと驚く程に体が跳ねて、残り僅かなココアが揺れる。入れてこようか?と指さすと「お構いなくっ」と慌てて返された。

「ごめん、質問しづらかった?」
「い、いえ!全然!」
「でも全然進んでないけど」
「す、進めますっ!」
「?うん、がんばれ」

調子が悪いのだろうか。顔も赤いし、風邪だったらどうしよう。部屋は適温だと思っていたけどもしかしたら暑く感じているかもしれない。ストーブ弱めようか?それとも寒い?何を聞いても五色工は「大丈夫ですっ」としか返さないので私も従うしかなかった。

いつも通りに問題を解き進めている。時々彼の方から服の擦れる音が聞こえる度、一人じゃないんだなぁと感じて何故だか妙に安心する。誰かと勉強するのはともちゃん含めて二人目だけど、こうやって家に呼ぶのは初めてだ。

思えば五色工とはいつも初めてのことばかりだ。
母親にも最近何かあった?と勘ぐられるほど浮かれているらしかった。恋人ができたことに、とは少し違う気がする。思っている事を伝えられる人。伝えてもいい、人?ずっと思い浮かべてしまう人、相手も同じなんだろうなぁと感じられる人、が、いる事が、嬉しい。

自分らしくないほど上手く表現できないこの感情が恋なのか、なるほど。と吸収していくのが楽しい。隣で笑ってくれる人がいることが嬉しい。それが彼だという事が今、一番、嬉しい。


ふ、と気づくと数式が全然進んでいなくて驚いた。
全然集中できていないのは私も一緒だったかと笑ってしまう。変わらず進み続ける時計の針を見て伸びをひとつ。

「ちょっと休もうか」

いい時間だし持ってきてくれたプリンでも食べる?と腰を上げると、「あの」と小さく声がした。

「ドア、開けませんか?」

やっぱり暑かったのか、と納得した。でも実際室温はそんなに高くないし、ドアを開けると廊下の冷気が入ってしまって結構冷える。それならストーブを弱めた方が早いよ、あ、向き変える?と世話を焼いてしまうと、「や、やっぱり大丈夫です」とすぐに引き下がっていったのが申し訳なくて、それなら、とちょっとだけ開けてあげた。

立ち上がったついでに冷蔵庫へ向かう。彼が持ってきてくれた箱の中から、プリンの瓶とスプーンを二つずつ取り出す。台所には母親が用意してくれていたお菓子が木のボウルに入れられていて、そういえば一緒に食べなさいって言われていたっけ、とそれも持って部屋に戻った。

五色工の頬はまだ赤みを帯びているけれど、来てまもなくのド緊張からはいくらかマシになったように思う。
色々食べよ、と声をかけるとテーブルの上の物を隅に寄せてくれた。

手土産のプリンは甘くて美味しかった。一口食べて「美味しい」とこぼせば五色工が「良かったです」と微笑む。
どこの?来る途中のケーキ屋さんのです。パティスリーなんとか?確かそんな感じです。そう言葉を交わしているうちに、彼の肩の力が抜けていくのがわかって私もホッとした。
お菓子をつまみ、ココアのおかわりも飲みながらのんびりと話をする。話題の引き出しの数が少ないため、必然的に話を振ってくれるのは五色工の方だった。練習のこと、先輩のこと。自分の部屋が溜まり場になる、と話してくれる彼は嫌そうにしていたけど、本当に嫌なわけじゃないって事はその顔を見れば明らかだった。


本当に、少し前まではこんな日が来るなんて夢にも思っちゃいなかった。
運命はきっかけ一つで変わるんだなぁ。いや、こうなる事が最初から決まっていたから運命なんだろうか。そう、考えても仕方のないことばかりが浮かんでしまう。答えが出なくてもいいんだ、と彼が教えてくれた。全部、彼が教えてくれた。

「……ありがとう」

突然こんな事を言うものだから、五色工が首を傾げている。
私も口に出すつもりはなかったのだけど気づいたら出てしまっていたし、彼の瞳も何がですか?と続きを待っているから、少し考えてから「好きになってくれて?」と言ってみた。

「っ、それは、こちらこそです!」

ぼんっ!と赤くなるのがおかしくて笑ってしまった。
実は照れ屋なことを知った時は心底驚いた。付きまとったり人前で告白してきたりと奇想天外だった人物と、どうしてもイコールで繋げられなかったからだ。
彼なりに一生懸命になってくれていたんだな、と今となれば思う。逃がしたくない≠ニ必死になっていてくれたのかと思うとくすぐったい。そのくすぐったさが、嬉しい。


「全部あなたのおかげだなぁ」


今の自分があるのが、全部。
「何かしてほしい事があったら言ってね。私もあなたにお返ししたいから」と言ってココアに口をつければ、五色工が私を呼んだ。


「……ちゃんと呼んでほしい、です」


ごきゅ、と喉で変な音が鳴った。

「な、何を?」
「名前です。俺と話すときみょうじさん、『あなた』って言うじゃないですか。お友だちとのときは俺のことフルネームだし……だからちゃんと、呼んでください」

喉にまとわりつく甘さに軽く咳払いをしながら考える。呼んでない?そうだっけ?と口にしつつ心の中は大騒ぎだった。
危険人物だと思っていたときから五色工≠ニいうフルネームが定着してしまって、今更どう呼んだらいいのかわからず二人称で乗り切ろうと考えてしまっていた。気づかれてしまっていたか。そりゃあ、気づくか。

たっぷり間を置いてから「ごしき、くん……?」と口にしてみる。違和感しかない。頭を抱えていると「欲を言っていいのであれば、下の名前がいいんですけど」と追い討ちをくらった。

「や、そ、それは恥ずかしくない?」
「みょうじさんも恥ずかしいとか思うんですね……?」
「え、私の事何だと思ってる??」
「……好きって言われるの嫌じゃないとか、平気な顔で言うじゃないですか」

口を尖らせながら拗ねたように言われて、そんな事もあったかと思いを馳せる。
たしかに今思うと自分に思いを寄せてくれている彼の気持ちを顧みないとんでもない発言だった。今さらの謝罪を「別にいいですけど」と受け流した彼が、「それではどうぞ」と笑って催促してくる。多分これは、別にいいとは思っていないやつだ。

改めて場を設けられると恥ずかしすぎて困ってしまう。でも、何かしてあげたいという気持ちに嘘はない。
つとむ、と、初めてそっと口にした。照れくさいのを誤魔化すべく、ずっと持ったままだったカップに口をつける。すっかり冷めてしまったそれを飲み干すと、隣で五色工が両手で顔を覆った。

「すみませんちょっと……やばい……」

隙間から覗く耳が赤くて私にも伝染してしまった気がする。
「ありがとうございます」と弱々しく言うのがちょっと面白くて、「どういたしまして」と笑って返す。
名前を呼ぶだけでこんなにも喜んでくれるのか、と私も素直に嬉しく思った。

「俺も呼んでいいですか?」なんてわざわざ確認してくるのが愛らしい。どうぞと促すと、見ているだけでドキドキが伝染しそうな程の赤い顔で、しっかりと私の瞳を見つめた。私がこれに弱い事を彼は気づいているんだろうか。

「なまえさん」

ああわかる。これは、うん。やばいね。

二人の周りだけ温度が二度くらい高くなったように感じる。顔を見合わせながら揃ってパタパタと手で扇ぎ、照れ笑いをした。時々、彼からの『おなじ気持ちになって』という切実な頼み事を思い出す。相手が何を考えているのかがわかって、自分もそう思っているってすごく、奇跡みたいなものだ。今、私はそんな奇跡の中にいるんだな、と感慨深く思った。

ココアを飲み、短く息をついた彼が気を取り直すように「なまえさん、は、何かしてほしいことないんですか?」と言う。
チョコレートでコーティングされた棒状のお菓子を口にしながら私の返事を待っている。してほしいこと。言ってみてもいいだろうか。いつかその日はくるとわかっているのに、そのいつか≠待ち遠しく感じてしまっていることを伝えてみても、いいだろうか。

持ったままだったマグカップを置いて、少し黙る。
「まあ急に言われても困りますよね」と食べ進める彼に、勇気を出して「キス」と言った。

「……へ」

わかりやすく固まっているのを笑う余裕はさすがにない。
「無理ならいいよ」と付け足しておく。無理ってわけでは、とかなんとかゴニョゴニョ口にしていた彼が、「いいんですか」と聞いてくる。だから、私がお願いしているんだから、よくないわけがないのに。

ぎこちない瞬きを数回して、工の体がこちらを向いた。
落ちていた視線が私のと交わる。緊張が伝わってくるし、私のも全部、伝わってしまっていると思った。
私の足元に手をついて、距離が一気に縮まった。ふわっと香ったいい香りがあの時借りたブレザーと同じでぎゅうっと苦しくなる。五色工がここに、いる。改めてそう思うと呼吸の仕方がわからなくなってしまった。

薄い唇が近づいてきて、彼の髪が私のを掠める。目を閉じるタイミングを聞き損ねてしまったことにも気づいて、私だけがてんやわんやだ。ぎゅ、と目を閉じた。同じように力の入った唇にそっと何かが触れて、すぐに離れていった。心臓が壊れそうなくらいドクドク鳴っている。息を止めているのも限界が来て、ぶはっと大きく吐き出した。
工が目を丸くして私を見ていた。

「だ、大丈夫ですか」
「ごめん……息、どうしたらいいかわからなくなった」

自分の事ばかり考えてしまったせいで、肝心のキスの方は心に刻むことなく済んでしまった。柔らかいのかどうかたしかめてみたかったのに、残念だ。
ゆっくり息を整えていると、未だにさっきの体勢のまま俯いている工が短く吐息を漏らした。


「すみません、もう一回……いいですか」


言葉の意味を理解した途端、ぶわっと全身が熱くなる。
もう、本当に、壊れる。痛いくらいに騒ぎ立てる心臓に軽く目眩を覚えながら、彼が言った台詞を頭の中で繰り返した。もう一回。もう一回、してもいいんだ。

小さく頷くと私の前に影が落ちる。見つめられている。私本当にこれに弱いんだよな、と思う間もなく唇が重ねられた。お互いにさっきのに比べて力が抜けていたおかげか、その感触に有り得ないくらいドキドキしてしまう。そっと離れてからほとんど無意識に唇に触れていた。

「や、柔らかかった……」

薄いのに、思っていたよりずっとふにゃふにゃで驚いた。工も同じように唇に手を添えながら、「……ですね」とこれまたふにゃふにゃと笑っている。
これがキスかと胸を熱くしながら、彼との出会いを思い出した。実感はないけれどあの時のが初めてだったんだよなぁ。私は正直言われないと気が付かなかったよ、と話してみると、工がどこか気まずそうに頬をかいている。

「みょうじさん全然気にしてなかったですもんね」
「何とも思ってない相手とだなんてただの接触事故だよ」

ギョッと驚いてから、「お、俺はドキドキしたのに……」とシュンと耳を垂らす姿がおかしくて笑ってしまった。
あの出来事は彼と出会うきっかけにすぎなくて、いつか思い出す私にとってのファーストキスは間違いなく、今日のこの日だ。二人だけの空気とか、体温とか柔らかさとか。思い出すのは多分、そういうのだ。

「私は今の方がドキドキしてるけど」

好きな人とのはさすがに落ち着いていられないね、なんて笑ったけれど何の言葉も返ってきやしなかった。
固まっている工の目の前でてのひらを振ってみる。その手がきゅう、と優しく握られた。

「つと──」

唇が重なる。呼吸の準備ができていなくて焦っていると思いの外すぐ離れていく。っは、と短く息を漏らした口にまたもう一度≠ェ降りてきて、目を閉じる余裕もなかった。
空いた手が頬に添えられて今度は角度を変えられる。息が上がる。思わず工が着ているセーターの肩の辺りを掴んでしまうと、次の瞬間には力強い腕の中にいた。

ドッドッドッと激しい心臓の音が伝わる。どうしたらいいのかわからずにされるがままの私を、工は更に胸にしまい込んで、長く熱い息を吐いた。


「……いつもいつも、平気な顔して」
「うん?」
「なのに名前呼ぶのは恥ずかしいとか言うし、ホントもう、どれだけ振り回せば気が済むんですか……」

びっくりして「散々振り回してきたのはそっちでしょ」と顔を上げたら、私以上に驚いた顔をしてから「俺がみょうじさんを、ですか?」と聞いてきた。

自覚がないようだから教えてあげた。恋愛初心者な私にとって『好きです』のオンパレードがどれだけ堪えていたかを。授業に集中できないなんて人生で初めてだったと。一睡もせず朝を迎えて、食事を摂ってないことにも気づかない程掻き乱されていたのだと。
ぽかんと聞いていた工が思い出したようにきゅ、と口を閉じて、それでも端っこの部分が嬉しい気持ちを隠しきれずにいる。

伸びてきた指先がぎこちなく頬をすべる。優しいてのひらがそうっと包み込んで、「好きです」と、もう何度聞いたかわからないその言葉のあと、口付けをひとつ落とされた。

「……すきです」

もうひとつ。また、ひとつ。

酸素を思うように吸い込めないうちに何度も何度も押し付けられ、頭がクラクラし始めた。重心をかけていた腕に力が入らなくなってきて、がくん、と後ろに倒れてしまった。

「っあ、す、すみません俺」
「え、いや、ごめん。力抜けちゃって」

私が体を起こすと、工は始めよりも少し離れた場所に座り直して「勉強しましょうか」と机の上のゴミを片付け始める。
お菓子を隅に寄せて教科書を開く彼の名前を呼べば、赤い顔がこちらを向いた。


「……もう、終わり?」


目を丸くした工の視線が右往左往して、落ちる。
瞬きを繰り返しながら「これ以上はダメです」と小さく言われて、すぐに「どうして?」と問いかけた。じとりと睨まれてしまった。

「……これ以上、は、我慢できる自信がないからです」
「しなきゃいいじゃん」

石みたいに固まった工がやっと息をこぼしたかと思えば、今にも消えそうな声で呟いた。

「そういうこと、軽い気持ちで言わないでください……」
「別に軽い気持ちじゃないけど」
「っ、意味わかって言ってます?」
「わかってるよ?」

即答したからだろうか。ぐ、とたじろいだ工は少しだけ何かを考えて、口を開いた。


「俺、用意してきてないです。持ってきたらそのことばっか考えるだろうし、絶対、使ってしまうと思ったので……だから」

赤い頬、耳。目元も心なしか赤みを帯びている。
縋るような、今にも泣き出しそうなその顔には見覚えがあった。多分私も同じ顔をしてるんだと思う。
今になって、同じ気持ちになってやっと、理解した。

もうずっとドキドキしすぎて痛いくらいの心臓に空気を送ってから一言、「あるよ」と言った。
工から表情が消えて、少し間を置いてから「え?」と聞き返してくる。


「私、持ってるから、やめないで」


震えた息をひとつこぼして、消え入りそうな声で工が「みょうじさん」と私を呼ぶ。

「なまえだよ、工」

そう言えば、次の瞬間には背中に固いラグの感触があって、熱に浮かされたような工に見下ろされていた。
工が用意してくれた逃げ道は、お菓子を取りに行ったときに自分で断ってしまった。

これから私は、本当にそうなんじゃないかと錯覚してしまうほどの可愛い≠浴びることになる。
優しさと、熱と、たくさんの好きです≠ェ、私だけに降り注ぐ。


(もっと大事にしたかったのに……)
(?優しかったじゃん)
(そ、そう意味ではなく!)
(良かったよ?)
(〜〜〜っもう!)

end.

『五色とその後のお話』でした。

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