ねえこれは、何の音?
大切なのは平常心だ。何事にも動じず、掻き乱されず、堂々と。落ち着いて。
静かな図書室にはページをめくる音、シャープペンを滑らす音。そして時々貸し出しの際のスキャナーの音。
それらを聞きながら本棚の隙間に手元の本を差し込んで、綺麗に並んだ背表紙を眺める時間が私は好きだった。
次の本を手に取って顔を上げる。
すぐ隣に人がいることに気が付かなかった。
「!?!」
落としそうになった本を慌ててキャッチすると、いたずら成功を喜ぶ友人がにんまりと笑った。
「聞いたよ。あの時の子に付きまとわれてるんだって?」
そう、そうなの。そうなんだよ。
クラスも違うし、運動部に所属していて忙しそうな彼女には怒涛の日々のことを話せていなかった。
友人は私が説明するまでもなく事情を把握済みで、更には同情どころか寧ろ楽しげに瞳を輝かせている。
学年主任といい彼女といい、皆思い通りの反応をくれないのは何故なのだろう?
「最高じゃん、キスから始まるとか漫画じゃん。何で拒むの?」
「何でって言われても」
「背高くてカッコカワイイ系じゃなかった?五色クン」
カッコカワ……??困惑した。どこがだ。
あれはしっぽをブンブン振り回したただの犬だ。
首を傾げていると友人が「やっぱり牛島センパイがいいの?」と続けるので、いつも通りの深いため息が出てしまう。
「だから私、先輩のことは別に」
「ねえ名前は恋愛したいなとか全然思わないの?華の女子高生だよ?」
「ともちゃんだってしてないでしょ」
「わ、私だって機会があればしたいよ!部活が忙しいんだよ!」
どこからか咳払いが聞こえて友人と口を閉ざした。きっと委員長だ。
さっきよりも声を潜めて、二人揃って背中も丸める。
「私興味が無いの他人に。誰かと過ごしたいとか思わないし、勉強してる方が楽しいし」
「私と出かけるのも楽しくないっていうの?」
「ともちゃんは別でしょ他人じゃないんだから。何言ってるの?」
意味がわからないと呟けば何故か首にぎゅうっと腕を回された。
彼女はこう、時々よくわからないところがある。
「それ、要は五色クンも他人じゃなくなればいいってことでしょ」
「だから何で五色工」
「なにフルネームで呼んでるの?」
「呼んだことはないけど」
「試しに仲良くしてみればいいじゃん。相手のこともうちょっとよく知ってみればまた見方変わるかもよ?」
「いいよ変わらなくて」
「何でそんな意地になるの?」
言葉に詰まった。意地になっている?まさか。私が??
「名字さん」
今、絶対足が地面から浮いた。
何度も何度も聞いた声。振り返った先にはやっぱり五色工がいた。友人が口元を押さえているけれど楽しそうなのは隠しきれていなくて睨みつけてやった。
「二年の人に聞いたら図書室だって聞いたので来ました!会えて嬉しいです」
その二年を恨みたくとも顔がひとつも浮かんでこない。
「図書委員なんですか?」
「……そうだけど」
「名字さんっぽいですね」
「本の虫っぽいってこと?」
「虫?蝶とかですか?」
「は??」
この男のことだからまた大きな声で好きだとかなんとか言われるのか、と身構えていたけど、どうやらいらぬ心配だったようだ。
蝶だって……!と足をばたつかせる友人を再び睨む。五色工が不思議そうに会釈をした。挨拶もできるらしい。……だから何だ当たり前のことだ。
「あの、さっき俺のこと話してましたよね?」
「話してないけど」
「話してたよ」
友人が即答した。信じられない。
そして私の睨みが全く効いていない事を痛感した。
「五色クンと仲良くなれればいいねーって」
「えっ!?俺となかよ……えっ?!?」
「ねえ!ちょっともういい加減にしてよ!」
友人の制服を引っ張ってももう遅い。
五色工は遠くを見つめながら反復している。
「名字さんが……俺と仲良くなりたいと思っている……」
「思ってないから。この子が勝手に言っただけで!」
「あの、俺を好きになったとかは言ってましたか?」
「それは言ってないね」
「ぐぬぅっ」
「あとね、名前が好きなのはうしじ──」
「んんん゛っ!」
咳払いがすぐ後ろから聞こえた。
恐る恐る振り向けば、委員長が汚れ一つない眼鏡を光らせながら図書室のドアをピッと指さしている。
トボトボ歩いていく二人分の背中を見送っていたら委員長の鋭い視線が突き刺さり、顎を彼らの方に向けられた。
ぴしゃり。
「何で名前まで追い出されてんの」
「私が聞きたいよもう……」
「委員長怖かった……」
三人並んで図書室のドアの前で立ち尽くしていると、次第に友人の肩が揺れだした。反対側も小刻みに揺れて、それはどんどん大きくなって、溢れた。
何だこのメンツ、と友人が笑う。漫画みたいに追い出されましたね、と五色工。
確かにちょっと、
「ふふ」
面白かった。
予鈴が鳴って顔を上げた。昼休みが終わる。
その前に委員長に一言謝りに行こうか、と考えていると五色工からの視線を感じた。
「なに?」
「いや……っ、えっと」
「ボーッとしてないで戻りなよ。授業遅れるよ」
友人も課題の存在を思い出したとかで、慌てた様子で既に遠くなってしまっている。
中に入ろうとする私の腕が大きな手に掴まれた。名前が呼ばれた。
「あの、今日も、好きです」
あの、きょうも、すき、です
「失礼します!」
何も言い返す間もなく五色工は深く頭を下げて走っていった。
仮に間があったとして、私は何か返せただろうか。
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