相好が崩れていく

廊下はどこも同じ造りのはずなのに、ただ歩くだけで居心地の悪さを感じてしまうのはこの、無遠慮に向けられている視線のせいだ。
階が違うだけで空気が違う。当たり前だけど、人も。周りの彼らも私に対してその異様さを感じているんだろう。

あの一年もずっと、こんな気持ちになりながら私の元まで来ていたのだろうか。

開けっ放しのドアを数回叩けばこちらを向いた生徒たちがあっと目を丸くした。

「五色工はいますか?」

疎らな教室内からちらほらと私の名前が聞こえる。
そりゃまあ、把握されているのも無理はないかと内心ため息をついていると、その中の一人が多分学食に行ったんじゃないかと教えてくれた。
お礼を言って踵を返す。
誰かの、「せっかくあっちから来てくれたのにいないとか、何やってんだあいつ」に心の中で共感した。
本当に、何をやってるんだ、あいつは。

毎時間と言ってもいいほど私の前に現れていたはずの五色工が姿を見せないまま、昼休みを迎えている。
どうせ会いに来るだろうしその時にでも昨日のお礼をと思っていたものだから、授業中もずっとムズムズしてしまって気持ちが悪かった。

人の多い購買を通り過ぎ、食堂に足を踏み入れた。
こちらも昼食をとる生徒で溢れかえっている、けれど、肝心なあのステキ前髪が見当たらない。
ふと後ろから声をかけられた。

「そんなところに突っ立って何してんの?」
「白布くん。あの、五色工見なかった?」
「見てないけど」

食券機にお金を入れた白布くんが、「そういや今日は珍しくまだ見てないな」とボタンを押している。
そう、あれだけ通いつめていたあなたの後輩がまだ顔を出していないの。
クラスメイトにも言われたくらいだ。あの子今日は来ないのかな。具合でも悪いのかな。何か、あったのかな。

「昨日」

白布くんの声に意識を戻す。

「部活でミス連発だったし、もしかしたら体育館にでもいるんじゃないか」
「体育館」
「白布先行ってんぞー」
「あ、私ももう行くから」

体育館ね、ありがとう。
立ち去ろうとした足を止めて、もう一度名前を呼んだ。
白布くんも振り向いてくれた。

「昨日、ありがとう。荷物」

コートや鞄を保健室まで持ってきてくれたのが白布くんだということは、ノートをとってくれた小野田さんが教えてくれた。
棚の上のそれらが綺麗に畳まれていたのを覚えているから、まさか大して仲良くもない彼だったと知って驚いた。

白布くんは「ああ。別に」と特に何とも思っていないような口振りの後、いつかみたいに「あの馬鹿がいつもごめん」と軽く頭を下げた。
だから、彼が謝る必要なんてどこにもないっていうのに。




目的地に近づくにつれて音がする。
シューズの擦れる音。ボールが床に打ちつけられてるみたいな、大きな音。

開いた扉から覗き込んだその先。
五色工はそこにいた。
冷えきった体育館で一人、サーブの練習をしているようだった。

こうやってバレー(と言っても練習だけど)を見るのは十月の代表決定戦のとき以来だ。
あの試合は接戦の末に惜しくも負けてしまって、高校時代の牛島先輩の試合を見られるのはこれで最後かと肩を落として帰った。
そんな、私の知らないところでもきっと彼は、今まで何度も、何度も。

転がったバレーボールを拾おうとした五色工が私に気づいた。

多分私の名前を呟いて、少し迷ってから駆け寄ってきた彼の表情には、いつもと違う不安の色が浮かんでいる。

「大丈夫なんですか休まなくて。体調は?」
「大丈夫。寝たら良くなったから」
「ほ、ほんとですか」

それよりも、と声をかけたらその目がギクリと揺れた気がして不思議に思った。

「昨日、ありがとう」
「へっ」
「おにぎりとお茶。用意してくれて」
「あ……え、いえ、全然。大したことじゃ」
「運んでくれたって聞いた。迷惑かけてごめんなさい。あと、大きな声も、ごめんなさい」

頭を下げる私に五色工は慌てふためいている。
姿勢を直して彼を見上げた。やっとちゃんと、目が合った気がした。

「私、牛島先輩に憧れていて。スポーツと勉学両立して、しっかり結果を残すのって本当にすごいことだと思ってて。不器用な私にはとても真似できないし、尊敬してて。だから、恋愛対象として好きとか言われるの、本当に嫌で。体調が悪くて頭がぼうっとしてたせいで、いつもよりこう、カッとなって」

何度目かの謝罪を手で制される。


「牛島さんに憧れる気持ちはよくわかります。誰だって、そうです」


静かな声だった。
いつもの自信に溢れた彼とは全然違って、私は何も言えなくなってしまった。

「練習の邪魔してごめんなさい。もう行くから」


気まずさから逃れようとした私の手首が引かれる。
また目が合って、足元に落とされた。何も言わず、それでいて何か言いたげな五色工のその重たそうな口が開かれるまで、数秒。待ってみる。


「……すみませんでした」


まさか、彼の方からも謝られるとは。


「な、何が?」
「……迷惑をかけたかったわけではなくて、ただ、好きだって伝えていればちゃんといつか、届くと思ってて」
「うん」
「……体調崩すほど負担に思わせてしまって、すみませんでした」


手が離れて、頭が下げられる。
彼が会いに来なかった理由にやっと気づけた気がした。

ふはっと息をこぼした私を、五色工は怪訝そうに見上げた。

「やっぱり真面目だよね。意外と」
「わ、笑うところですか」
「私さっき、牛島先輩に憧れているって言ったじゃない」

頷く彼の顔色は変わらない。

「一つのことしかできない自分が嫌なの。あれもこれもがんばれない。他のことには気を回せない。勉強しかできなくて、好きとかいうのも経験なくて、それなのにプライドだけは一人前で。年下のあなたにはわかって自分にわからないものがあるのが悔しくて……少し、意地になってたんだと思う」
「な、何の話ですか?」

困ったように瞬きを繰り返す五色工が首を傾げた。


「あなたのことを、とんでもなく非常識な人だと思っていてごめんなさいっていう話」


そんな風に思ってたんですか!?なんて嘆く五色工を笑ったら、途端に唇をぎゅっと閉ざして体を硬くしてしまった。
言いかけた“どうしたの?”は、時計の針をとらえた瞬間どこかに消えてなくなった。

「それじゃあそろそろ」
「えっ。どこ行くんですか」
「どこってお弁当。食堂もう空いてるだろうし」
「おっ、俺と食べるために持って来たんじゃなかったんですか!?」

今度はこちらが首を傾げる番だ。

「何でそうなるの?ていうかまだ食べてないの?」
「……食欲がなくて」
「じゃあ食べられないじゃない。私は行くけど」
「た、食べます!いま!食べます!移動する時間勿体ないし、ここで、食べましょうよ一緒に。ふ……っ」


ふたりで。

最後のはしりすぼみで聞き取りづらかったけど、ちゃんと聞こえた。
仕方がない。私のため息を了承と受け取った五色工が嬉しそうに顔をほころばせていた。


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