あの前髪に思いを馳せた
外の世界は相も変わらず真っ白で、鋭い空気から逃れるべくマフラーを鼻まで引き上げる。運動部らしき生徒の声がどこからか聞こえて、こんな季節だというのによくもまぁ、なんて気の毒に思った。
すっかり軽くなったお弁当箱を揺らしながら正門へ向かう途中、遠くから飛び込んできた賑々しい声の中に聞き慣れたものがあることに気づいて立ち止まった。
やっぱりだ。雪の積もった花壇の向こう側、集団の中に見知った前髪。また騒がれるかもしれないし気づかれないうちにと足を速めた、けれど。
ふと、さっきのおにぎりの味が脳裏を過った。
階段での会話の途中からの記憶がないわけで、運んでくれたのもきっと彼だろうし、気遣ってわざわざ見舞いの品まで用意してくれるその優しさを蔑ろにするのは如何なものか。
声をかけるべきだと思うのに、部活中だし、他の人もいるし、と言い訳ばかりが次々と出てきてなかなか一歩を踏み出せない。
もういっその事いつもみたいに気づいてくれればいいのに。
そんな願いも虚しく、五色工はそのまま部の人たちと体育館の方向へと歩いていってしまった。
「……こういう時に限って」
普段なら私が望んでなくたって大きな声で名前を呼んでくるくせに。
遠くなる背中にじとり、睨みをきかせても、結局五色工が私に気づくことはなかった。
一方的にその背中を見つめたのはこれが初めてだった。
私が知っている、五色工。
男子バレーボール部所属、一年。
初詣で口と口がぶつかってから行く先々に現れるようになる。
ずっと尻尾を振り続けている大型犬。
放課後は真面目に部活動に勤しんでいる。
真面目に。
まじめ?
五色工が、まじめ。
まじめって何だっけ……??
「おはよう。昨日大丈夫だった?」
顔を上げた。固まる私の隣でクラスメイトが雪のついたブーツをしまっている。
何かの間違いかと思ったけれど、「倒れたって聞いたからびっくりしたよ」と言葉を続けるのでどうやら間違いではなく、私に話しかけている、らしい。
「もう来て大丈夫なの?」
「あ、うん。もう大丈夫」
「無理しないでね」
(……無理しないでね?)
彼女は自分の友人を見つけたらしく、おはよう、今日も冷えるねーとすぐに背中が遠くなった。
この高校に入学して二年目の終盤も終盤。
私は今、かつてない朝を迎えている。
*
「あれ、もういいんだ」
教科書を机に入れる手を止め、顔を上げると、冷気をまとって鼻を赤くしたクラスメイトが鞄を置くところだった。
困惑している私を知ってか知らずか、てっきり休むかなと思ってた、とマフラーを外す彼に寝不足だったことを告げると吹き出された。
「いやっごめっ。一年のアイツがちょろちょろするようになってから見るからに疲れてんなーとは思ってたけど、昨日は一段とすごかったから」
「……何が?」
「急に赤くなったり青くなったりブツブツ何か言ってたり、授業中は板書もとらないでずっとおっかない顔してたよ。先生ちょっとビビってたよ」
耳を疑った。なんて事だ。
確かに昨日の授業は正直何を受けたかも覚えていないし、そう言えば帰ってからの復習もし損ねている。
倒れたのに笑うのは不謹慎だよね、ごめん。そう言いつつも、頭を抱える私がそんなに面白いのか、彼はケタケタ笑いながらコートを掛けに行った。
昨日の分のノートを借りられる仲の人なんて一人もいない。
どういう風の吹き回しか、自然に話しかけてくれた彼に頼んでみようかと考えていると、今度は別の声が降ってきた。
「よ、良かったらこれ、使って」
差し出されたのは数枚のルーズリーフ。
差し出してきたのは普段斜め前の席に座っている、これまた特に話したことのない人物だ。
「昨日授業全然聞いてなかったでしょ?テストに出るって先生言ってたし、困るかなと思って……えっと」
綺麗な字とカラフルなペンでまとめられた授業内容。それも多分、昨日の一日分。
おずおずと受け取ってから彼女を見上げる。私からの何で?を体中に浴びる彼女はどこか緊張しているようだった。
「ずっと、どうやったらそんなに頭良くなれるのかなとか、なにか秘訣があるのかなとか、気になって。知りたくて。でも私なんか、近寄られても迷惑かなとか、ずっと、あの、ずっと、仲良くなりたくて」
それ、受け取る代わりに、友だちになってください。
頭を下げられて言葉を失ってしまった。意味がわからない、状況も、全然、何が起こっているのか。
「はい」
気づいた時にはそう返していた。
また近くでさっきの彼が吹き出すのが聞こえた。
「『だめです』じゃないんだ」
「だってもう、受け取っちゃってるし」
「確かに」
「ねえ名字さん、私も昨日出された現文の課題コピーする代わりに友だちになってくれる?」
「あ、課題は机の中に入ってたから大丈夫」
「断られた」
「尾上が断られた」
「ドンマーイ!」
「っっ諦めない!損はさせないから!」
まだよく理解できていない、けど。
いつの間にかクラスの輪に混ざっている。遠巻きに見て、自分とは関係ないと思っていた中に、いる。
ルーズリーフをくれた彼女と目が合うと、にっこり笑ってくれた。
「一人でいる方が好きなのかなってずっと、声かけられなかったけど、一年の子に絡まれてる名字さん、面白くて、やっぱり仲良くなりたくて。あの子もめげないから私たちも押してみよっかって、みんなで」
鐘が鳴るのと同時に担任が来たので、彼女は照れ笑いを浮かべながら自分の席についた。
私に気がついた担任に他の人と同じことを尋ねられ、同じように万全の体調であることを告げるも、実際は心ここに在らずだった。
浮き足立っている自分がいる。
今日まで過ごしてきた学校生活に、不満なんて1ミリもなかった。充実していた。なのにそれ以上に、今。今が一番、満たされている。
(……まさか、こんな日が来るとは)
自分でも信じられない。
煩わしいあの一年の顔を見たいと、思うなんて。
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