くるくる気づけば狂わされ

黒板の文字の羅列が全然頭に入ってこない。
何らかの異常が生じているのは明らかで、情報が脳を経由することなくボトボトとこぼれ落ちてしまっている現状。

昨日から少し、油断をしただけで思い出してしまう、目。体温。声。
もしかすると私は病に侵されてしまっているのかもしれない。
集中力の低下、動悸、息切れ。


『あの、今日も』


幻聴。


授業を終える鐘が鳴り、教師に頭を下げ、机の上もそのままに私は教室を出ていた。
階段を下りて廊下を進み、目的地は保健室。

コンコン、ガラリ。
お弁当のおかずを前に大口を開けている先生と目が合った。
今感じている症状を一呼吸で伝えて、「これらは一体どんな病が考えられますかっ?」と鼻息荒く返事を待つ。
椅子に深く座り直した先生が両肘をつき、指を交差させ、その上に顎を乗せた。

「もしかして」
「もしかして」
「恋」
「馬鹿なんですか??」


こんなにも手が出そうになったのは生まれて初めてだ。

その足で図書室へと向かう。まだ誰も来ていないようだった。
今日は当番ではないけれど、昨日は全然仕事ができなかったので続きを、と思ったが返却本棚はすっからかんだった。きっと放課後、担当の人が片付けてくれたのだろう。

頭が痛い。目が霞む。
体調管理は基本じゃないか。自分が恥ずかしい。

ふーっと息を吐いているとふと、長机に本が置かれたままになっていることに気がついた。
片付けないで戻るなんて非常識な人もいるものだ。
手に取って、息を呑む。


──〈恋のはじめかた〉


「名字さん?」


驚いた弾みで本を落とし、椅子に足が当たって大きな音が響いた。
声の主が別のクラスの図書委員であることを確認して、空想のステキ前髪をブンブンと振り払う。

「今日当番うちのクラスだよね?」
「昨日の続きしに来ただけ。終わってたけど。もう戻るから」


本を拾い上げ、そのまま置いていくわけにもいかないので、ラベルを確認して棚を探す。

見つけた。しまおうとした手が止まった。
唐突に飛び込んできた文字たちに顔面パンチを食らった。


〈恋じゃないと思いたい〉

〈恋のときめき〉

〈恋の音が聞こえた〉


こ い


コ イ


K O I


となりも、そのとなりにも全部、同じようなタイトルが並んでいてクラりとした。
大丈夫?と背中に投げかけられた気がしたけど返事をしたかどうかは定かではない。
フラフラと廊下を進み、階段の手すりに手をかけたところで上から私を呼ぶ声がした。


「名字さん!」

出た。
散々聞いた幻聴ではない。本物だ。

どうせまた今日も、私に好きだとかなんとか、ほざ、


「あの、聞きたいことがあるんですけど」


く、と、思っていた、けど。

階段を数段下りて、拳を握って、ゆっくり息を吸う五色工は全然笑ってはいなかった。


「名字さんって、もしかして。その」

言葉を探す彼の口から控えめに「牛島さんのこと」と聞こえて、何かがプツンと切れた。


「しつこい」
「え?」
「しつこい。ホンッットにしつこい!」

階段を踏み鳴らして目を丸くする五色工の真正前に立つ。
元々の身長差もあるけれど、一段下から見上げるのが癪で見下ろせる高さまで上ってやった。

「あなたね、聞くけど、トーマスエジソンと付き合えるのっ?」
「へ、え、エジソン」
「アルベルトアインシュタインとか、アイザックニュートンだとかと付き合いたいと思うっ?」
「付き合、やっ、全部男……」
「別に誰だっていいけど!マザーテレサでも!フローレンスナイチンゲールでも!」
「な、何でフルネーム……?」

「どうして偉人を崇めるだけでみんな、好きとか、嫌いとか、そういう話に、な──」


体がふわりと浮いた。

意識が遠のいて、力が抜ける。







目を覚ますと私はベッドの上に横たわっていた。

真っ白い天井、布団、カーテン。
私の部屋ではない。どうやらここは保健室のようだった。

ゆっくり起き上がって伸びをしてふと気がついた。体が軽い。
嘘のように頭がクリアで視界も良好。息苦しさも皆無だ。
私の目が覚めたことに気がついたらしく、一言断りを入れられたのちにカーテンが開けられた。
さっきはからかってごめんなさいね、あなたのその症状は多分ね。ごくりと固唾を呑んで続きを待ったのだが、思ってもいなかった返答に情けない声が出た。


「……ね、寝不足?ですか?」
「じゃないかと思うんだけど、全然眠れてなかったんじゃない?」

言われてみれば確かにそうだ。昨日はフラフラと家に帰って机にも向かわず布団に入って、頭の中がずっとごちゃごちゃしていて、全然眠った記憶が無い。

倒れたって聞いたからすぐに親御さんに連絡しようかと思ったけど、あんまり気持ちよさそうに眠っていたからそのまま寝かせちゃったわよ。先生はそう言いながら机に戻った。

腹の虫が響いて慌てて押さえる。
そういえば晩御飯もろくに食べていないような気がする。朝食もそうだし、お弁当だって鞄の中に眠ったままだ。食事のことなど全く頭になかった。

窓から射し込むオレンジ色に驚いて時計に目をやり、ギョッとした。
放課後だった。そんなに眠っていたのかと言葉を失った。
引き出しのついた小さな棚の上には私の鞄もコートも全て揃っている。
足先で靴を探していると、荷物に紛れておにぎりとお茶が用意されていることに気づく。
先生が用意してくれたのだろうか。私が頭を下げてお礼を述べると先生は笑って頭を横に振った。

「クラスの子が荷物持ってきてくれたの。あ、それはお昼の子よ」
「……お昼の子、って」
「あなたをおぶって連れてきてくれた子」

駆け込んでくるからびっくりしちゃった、と呑気に話す先生に勇気を出して問いかける。

「……誰、ですか」


頭には顔が浮かんでいるくせに、答え合わせをするように問いかける。


「一年の子かな。昼休みはずっとそこにいたんだけどね、放課後また来て、部活があるからってそれだけ置いてすぐ行っちゃったわ」

先生の視線が手元の仕事に戻ったので、おにぎりに目を落とす。
包装を剥がし、程よい塩気と梅干しの酸味を噛みしめながら。
いつまでも、記憶に無いはずの力強くて優しい背中を思い出していた。

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