大澤くんが誘ってくれた。他でもないこの私を。
それなのに、こんな夢みたいな日なのに、何度も脳裏に浮かぶのはあの取り繕ったような笑顔だなんて、夜久が知ったら何て言うだろう。
『もったいないだろ、せっかくのデートなのに』とかなんとか頭の中で言う夜久はやっぱり上手く笑えていなくて、どうしたって私の頭から離れていってはくれないみたいだ。
「名字さん?」
腕時計から顔を上げると、すぐ目の前には私服姿の大澤くんがいた。
「ごめん遅くなって」
「ううん大丈夫。私もさっき着いたところだったし。行こっか?」
うんともすんとも言わない大澤くんは、じっと私を見つめたのちにふわりと笑ってみせた。
「私服姿初めて見た。可愛い」
「ひっ」
「ふははっ、『ひっ』って」
「だってびっくりして……!」
「ホントだよ。すげー可愛い……ふっ」
「なんで笑ってるの!?」
私の真っ赤になった顔がよっぽど面白いらしい。
ひとしきり笑ったくせにまだ笑い足りない様子の彼は、まるで今日のお日様みたいに微笑んで、するりと私の手を取った。
「!」
「行こ」
……どうしよう。
汗はすごいし、バクバクと激しく脈打つのがてのひらから伝わったりしないだろうか。
大澤くんの温かくて大きな手に包まれながら、そう言えばどこかの誰かさんはあの日の私を一言も褒めてくれなかったっけ、だなんて今となってはどうでもいいことが頭をよぎる。
手を引かれる中、目を落とした先にある長針は、いつまでも同じような場所を指していた。
映画まで少し余裕があるので近くのファーストフード店に立ち寄ることにした。
何にするか聞かれてこれにしようかな、と答えると、大澤くんは私のと自分のを注文するなりさっさとお金を払ってしまった。
「え、待って自分で払うよ」
「いーのいーの。俺が誘ったんだから」
「いやでも」
『あのなー』
ふと過ぎった声に口を閉ざす。
『こういうときは男を立てろよな。大した金額でもないんだし』
『いいから奢られとけっての。俺がそうしたいんだからいーの』
夜久が連れて行ってくれたホットドッグのお店の前でそんなやり取りをした。
どうやら腑に落ちない顔をしていたらしく、フッと笑った夜久は一言、こーいうときはなんてーの?とわざとらしく首を傾げていた。
「……ありがと」
優しく口角を上げた夜久の顔が鮮明に浮かんで、心臓が跳ねる。
……落ち着け。目の前で笑ってくれているのは大澤くんだ。大澤くんの後を歩いて席に向かう途中、気づかれないように深く息を吐いた。
*
軽食をとってから訪れた映画館は休日というだけあって多くの人で賑わっている。
鼻を抜けていく甘いポップコーンの香りにうっとりしている私を大澤くんは笑い、キャラメル味のポップコーンとジュースを奢ってくれた。
チケット代も払わせてくれなかったんだからせめてここは!と渋る私を制し、「格好つけさせてくださーい」と元々準備しておいてくれたチケットでスムーズに指定されたスクリーンへと足を向かわせた。
見事に同年代ばかりが居合わせるその空間の、一番後ろの真ん中の席。
腰掛けたときの距離の近さにドギマギしながらも腕時計を確認すると、時刻は一時半を回ったところだった。
実を言うと、原作は試し読み程度にしか読んだことがなくて、予備知識ゼロの恋愛映画に私は気づけばどっぷりとハマりこんでいた。
恋愛下手なヒロインが恋をするのはクラスの人気者で。
地味な自分じゃ釣り合わないと挫けたりするけど、幼馴染みの男の子や友だちに励ましてもらいながらどんどん距離を縮めていく話だった。
好きな男の子の一言で簡単に天国と地獄を行ったり来たりできるその感覚はよくわかるなぁ、と夢中になって見入っている中で、幼馴染みの子が向けてくる眼差しに既視感を覚えた。
笑っているのに笑えてなくてどこか、本音を押し殺したような。
(……いやいやっ)
見るからにヒロインのことが好きな彼と重ねるなんて、自意識過剰すぎて呆れてしまう。
けれど自分の感情をぐっと呑み込んでヒロインの背中を押してあげる彼の姿を見ていると、どうしてもあの茶髪が過ぎって妙に落ち着かなくなってしまった。
思えば夜久は、いつだって優しかった。
大澤くんとのことを応援してくれる前から私を気にかけてくれる人だった。
具合が悪いことに誰よりも早く気づいてくれるのは夜久だった。
落ち込んでいる時に限って、私が好きそうなお菓子を見つけたからと分けてくれたのは夜久だった。
そばにいて、心に寄り添っていてくれたのは、夜久だった。
《あいつはいつも、柔らかく目を細めて》
聞こえてきたヒロインの声にハッとした。
……そういえば、くしゃりと楽しそうに笑うあの明るい顔を最後に見たのはいつだったろう。
《眉を下げて、言葉を呑んで。時には唇をかみしめて》
《ただ、私の笑顔のためだけに自分を殺して笑うんだ。》
夜久は笑いながらいつもどこか苦しそうだった。
『笑っていて』と、『それだけでいい』と言ってくれたのは夜久だったのに。
《────そんなあいつの心からの笑顔以上に》
《私が笑顔になれるものなんて、ひとつもないのに。》
瞬きの仕方を忘れた私の瞳からひとつ、雫が零れると、ひとつ、またひとつと堰を切ったように溢れ出てきてしまって、ただ顔を覆うしかなかった。
本当の気持ちを自覚したその台詞は、私の胸の一番深いところにどぷんと浸かって、みるみるうちに身体中に染み渡っていく。
温かい感情だった。温かくて、切なくて、締め付けられて、苦しい。
「名字さん?」
いったい私は今日、何度夜久を思った?
着ていく服に悩んだり、次の日を思ってソワソワしたり。
隣にいる『好きな人』のことじゃなく、いつからか私はあの明るい茶髪を思い浮かべていた。
ずっとずっと、私の中にいた。それが答えだったんだ。
私がずっと、好きだったのは──。
「え?……わっ」
大澤くんは荷物をまとめると、そっと私の手を引いて出口へ向かった。
シアターを出るなりこちらを振り返った彼は、口元に笑みを浮かべていた。その表情にどきりとしたのは全てを悟った顔をしていたからだ。
思わず口をついて出た謝罪の言葉に大澤くんは笑った。
「何で謝るの?」
ズキンと胸が痛む。でも私は言わなくちゃいけない。
服の裾をきゅうっと握って震えながらも息を吸った。
「私、楽しかった。男の子と二人で歩いたり寄り道したりとかそういうの全部初めてだったから……ドキドキした。優しくて楽しい人と出会って、仲良くなれて、こんなのまるで少女漫画みたいだなって、こうなる運命だったんじゃないかなって浮かれてたの。……これが恋だと思ってたの。それなのにね」
訪れた沈黙は重く、遠くで次の映画を待つ人たちの騒がしい声がよく聞こえる。
「ふとした瞬間に顔が過ぎるの。声が聞こえるの。今どうしてるだろうって、自分の中がその人のことでいっぱいになってるの。せっかく大澤くんと出かけてるのに私今日、その人のことばっかり考えてたの」
「……ん」
「大澤くん、私……好きな人がいる」
顔を上げられなかった。別に大澤くんに好きだと言われたわけでもないのにこんなの、自惚れていると思われてるだろうか。
それとも誘いにはのっておいて今更何を言っているのかと幻滅されたろうか?大澤くんはどんな顔をしているんだろうか?
「まだ間に合うよ」
「……え?」
「バス、もう少ししたら音駒行きのが来る」
思わず見上げると、想像とは全然違ってうんと優しい顔をした大澤くんがいた。
何も言えずにいるといつものようにふはっと笑って、「俺からもひとつ、ごめん」と続けた。
「先に誘われてるの知ってたんだよね」
「え……」
「俺もちょっと思ってたからさ、運命かもって。だから何か悔しくて。……意地悪してごめんね」
「そんなこと」
「行ってきな夜久のとこ。今俺に言ったみたいに、思ってること全部伝えておいで」
大澤くんの指先が目尻の涙をそっとさらっていく。
「夜久って私一言も言ってない」
「ふははっ今更じゃん?わかるよ、あんな良い奴どこ探したっていないよ」
「それは否定しないけど……大澤くんだって良い奴≠セよ。二人とも誰にでも優しいじゃん」
私の言葉に目を丸くした大澤くんが小さく零した。
「……ほんっと、ばっかだなー」
「え?」
その先がよく聞こえなくて聞き直したけど欲しい返事はもらえず、そのまま肩を掴まれて体の向きを変えられてしまった。
「バスに乗り遅れたら俺とのデート続行です」
「それは……困る」
「ふはっ。でしょ?行っといで。ちゃんと気持ち言うんだよ」
大きくて温かなてのひらがそっと背中を押してくれる。
……大澤くんに惹かれたあの気持ちは絶対嘘じゃない。
大澤くんだったからあんなにドキドキしてあったかい気持ちになれたんだ。
私の「ありがとう」に大澤くんはニッと笑って大手を振って見送ってくれた。
映画館を出ると近くのバス停にちょうどバスが来たところだった。
乗り込んでスマホを確認するとlimeが一件届いていた。
頬袋に食べ物をたくさん含んだ、リスのアイコンの彼から、スタンプが一つ。
手足のはえた肉まんのキャラクターが、『がんばれ!』と両手を広げて笑っていて、つられて笑ってしまいながらも目頭が熱くなるのを抑えられなかった。