てのひらに残っているのは私のものと変わらない速度で響いていた鼓動。
がっしりとした体の感触。背中にはじんわりと伝わる熱。耳元には僅かに震えた掠れ声。
鼻には優しい香り。夜久の、香り。

「聞いてるのっ?」
「ひっ!」

視界いっぱいに保健室の先生の顔があって咄嗟に変な声が出てしまった。
足を診てもらっている最中で、「痛い?痛くない?」と聞いてくれていたみたいだった。全く聞いていなかった。

「あなたの言う通り大したこと無さそうよ。軽く捻ったんでしょう。念の為冷やして行った方がいいと思うけど……次の授業の先生には言った?」
「友だちには伝えました」
「なら大丈夫ね。しっかり冷やしていきなさい」

先生が用意してくれた氷水に足を入れて、せかせかと仕事をこなす姿を目で追う。

「あなたついこの間顔面レシーブ受けたと思ったら今度は捻挫なんて危なっかしいわねー。しかもここに来たときから顔が赤いんだけど調子も悪かったりする?」
「えっ!?これは違います!!」
「しーっ!休んでる人がいるから静かに」
「……す、すみません」

確かに奥のベッドのカーテンが閉まっているのを見て慌てて口を覆った。
そこからは物音一つ聞こえなくて、眠っているのかもしれないけどできるだけ聞かれないようなボリュームで声をかけた。

「……先生」
「なあに?」
「もし、あの。先生は今まで友だちだって思ってた人と距離が縮まったらドキドキしますか」

手を止めて数回瞬きをした先生は同じように声を潜めて「なあにー?恋バナ?」とにんまりしている。

「私もそんなに経験があるわけじゃないし。あなたくらいの年頃ならしちゃうかもね」
「他に好きな人がいてもですか?」
「えー、相手によるかな。どうしても苦手な人とか嫌いな人ならドキドキはしないだろうし。仲が良くてもそういう目で見られない相手もいるだろうし」
「……そう、かもしれません。けど!もしドキドキしちゃったら私は尻軽ってことですかっ?」

大きく吹き出した先生はハッと奥を凝視した後、私に向き直って「もしもよ?」と口角を上げてみせた。

「もしも、その相手が別の友だちだったとしたらあなたはどう思う?」
「別の人……ですか?」
「ドキドキしちゃう?」

例えば助けてくれたのが夜久じゃなくて黒尾だとしたらということだろうか。
あの時手を伸ばしてくれたのが黒尾で、黒尾に抱きとめられたとしたら。

背中に残るてのひらの熱に、離れない鼓動に、忘れられない香り……。

「いやいやいや、ないです絶対。ないない」

想像するだけで笑えてきちゃって両手を振って否定すると、どこか楽しげな先生が更に笑みを深めた。

「それじゃあもしかしたらその人だからドキドキしたのかもね?」
「その人、だから」
「そう」


相手が夜久、だったから?

両手ですっかり熱くなった頬を押さえて小さく「先生」と呟いた。


「……今度の日曜日なんですけど」
「うん?」
「うちの体育館で練習試合があるから見に来てって言われて。行くって言ったらすごくその、嬉しそうな顔されて。顔が赤くなってて、あの……これって」


「失礼しま……ん?どうした名字?」

ノックの音と共に入ってきたのは担任の先生だった。
途端に恥ずかしさが込み上げてきて用意してくれていたタオルで足を拭いた。

「授業は、って、足痛めたのか?」
「ぜ、全然平気ですっ、念の為冷やしてて!でももう戻ります!ありがとうございました!」

言い終わってからそう言えば寝てる人がいるんだった!と口元を両手で覆う。
担任の肩越しから顔を出した先生に「またいらっしゃい」と呑気に見送られながら保健室を後にした。



その後は結局授業には出ず誰もいない自分のクラスへ戻った。
冷たさの残る足首に痛みを感じることは一切なく、そんな事よりも先生に言われた一言で頭の中がいっぱいになっている。

そんなことがある?夜久だったからドキドキしたなんて、まさか……本当に?

しばらく一人でそうしていると授業終了を告げるチャイムが鳴り、隣の教室からは生徒が出入りする音や賑やかな声が聞こえてきた。
クラスメイトもパラパラと戻ってきて「聞いたよ。大丈夫?」などと気遣ってくれている。
大丈夫だよ、なんともないよ。なんて返していると夜久が駆け込んできて、私の姿を確認するなり脱力したように笑ってみせた。

「……いた」
「!」

『その人だからドキドキしたのかもね?』

(いや……いやいやいや)


「保健室行ったらとっくに戻ったって言われて、けど授業には来なかったし……つーか足は?」
「だ大丈夫っ!冷やしてきたし痛みゼロ!」
「そっか、良かった」

もう一度砕けた笑みを浮かべて自分の席に戻る夜久を目で追っていたら隣の主も帰ってきたらしく、どかりと音を立てて座ったと思ったらこちらを向いて何か言いたげな視線を送ってくる。

「なんなのその顔」
「もったいねえなぁーって思うわけですよ」
「え?」
「まあ好きな人がいる奴にこんなこと言うのもあれなんですが?うちのやっくんはいつまでも授業に来ない誰かさんのこと心配して、終わって早々に教室出てっちゃうくらいには大事に思ってるみたいだけど?」

やべ、次の予習すんの忘れた。やった?なんて言ってる黒尾のことなんて全然頭に入ってこない。
私は嬉しいんだろうか。このドキドキは経験の無さからくるものなんだろうか。


「名字?いるけど。呼ぶ?」
「いや大丈夫。ありがと」

ふと自分の名前が会話に上がったのが耳に届いた。
教室の扉のところにここにいるはずのない人の姿があって心臓が大きな音を立てた。

大澤くんがいる。私を見て、近づいてくる。

「名字さん」

私の机の前で足を止めた大澤くんは、久しぶり……でもないか、なんて笑いながらスッと何かを差し出した。

「この間はありがとう。借りっぱなしだったから返さなきゃと思って」

綺麗に畳まれたそれはあの時お菓子を詰めて渡した巾着袋だ。
珍しい人物の登場に周りの人の遠慮のない視線を感じて、私の笑顔はぎこちないんじゃないかと余計にドギマギした。

わざわざこんなに人がいるときじゃなくても良かったのに、とか思いながらも受け取ろうとしたけど何故か手を離してもらえない。
あれ?と見上げると大澤くんがじっとこちらを見つめていて一際大きく胸が鳴った。

「名字さんさ、ちゃんとしたお礼はまた今度するって言ってたじゃん。あの時は楽しみにしてるって返したけど実際はそんなのいいのにって思ってたんだよね。けどやっぱり良くないなーって」
「あっそのことなんだけど。色々考えたんだけどね、良かったら今度また一緒に……」
「名字さんの時間俺にちょうだい」
「帰って……へえっ?」

あまりに突然の事で情けない声が出てしまった。
クラスメイトもざわざわと騒ぎ出すのを感じて、ワンテンポ遅れてやっと火がついたように顔が赤くなる。
冗談で言っているんじゃないということは真面目なその表情を見れば明らかだった。

巾着から手を離した大澤くんはポケットから何かを取り出して机に置いた。

「前に話した映画、二人で観に行こ」

これは本当に現実なんだろうか。
チケットが二枚。大澤くんが映画に誘ってくれている。私を。なぜ?
友だちは多いし、恋愛ものを観に行ける女の子だってたくさんいるだろうし、カラオケに行こうって大澤くんに言いに来たあの子は多分大澤くんのことが好き、だろうし。

「……本当に私でいいの?」
「ふはっ、何言ってんの。名字さんだから誘ってるのに。俺とは嫌だ?」
「そんなわけないよっ!ただ少し、パニックで」

大澤くんはくつくつ笑うと少しの間私の目を静かに見つめて言った。

「今度の日曜とか、どうかな」
「え……」
「だめ?」

盛り上がっていた気持ちに冷たい風が吹き付けてくるように感じた。

『ふうん、用事もないし行ってみようかなぁ』

練習試合を見に行く、そう言ったのは間違いなく私だ。
あの時の夜久の驚いた顔、嬉しそうに綻んだ顔を思い出すと胸の辺りがじくじくと痛んだ。

気づけば周りのクラスメイトも静かに私の返事を待っていて先程までとは違う嫌な鼓動がどんどん加速していく。
大澤くんの視線に耐えられなくて逃げるように目を逸らした先に私を見つめる夜久がいた。


「ちょうど良かったなー名字。日曜は暇だって言ってたろ」

ニッと歯を出して笑う夜久に何の言葉も返せなかった。
その声に周囲のどこか張り詰めていた空気が一瞬で祝福モードになって、「ってことは?」「デート?」なんて声が色んなところから聞こえてくる。

「オッケーってことでいい?」
「あ……う、うん!行く……ます」
「ふははっ。良かった。ありがと。じゃあ日曜日に駅前で」

後で連絡ちょうだいと手渡されたメモ紙には電話番号とlimeのIDが書かれていた。
ふわりと笑って教室から出ていく大澤くんを見送ると今まで一言も発さなかった黒尾が静かに言う。

「もしかして好きな奴って大澤だったり?」

そうとも違うとも言えなかった。
もう一度夜久を見ると夜久も私を見ていて、眉を下げて微笑むその顔がどうしてか切なくて胸のじくじくがどこまでも広がっていくようだった。
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