何度かの瞬きの後、やっとこちらに向き直った夜久の口からその台詞が紡がれることを私は、初めから知っていたような気がした。
「ごめん。名字をそういうふうに思ったことない」
夜久とは良い関係を築いてきた。
学校行事も近くで取り組んできたし、去年の見学旅行だって同じ班で過ごした。バレーの大会を見に行ったこともある。
誰よりも仲のいい女子は私だって自負していた。
そう。夜久にとって私は誰よりも仲の良い、友だちだった。
あれだけ近くにいたというのに、たったの一言で嘘みたいに色の変わってしまった現実を私は未だに受け止められずにいる。
パッと気まずそうに逸らされる視線に何度胸を痛めたかももうわからない。
頭の中は夜久に振られたという事実ばかりに埋め尽くされていて、それから一週間ほど経って実施された定期テストは当たり前だけど、散々だった。
辛うじて赤点は免れたものの先生からの説教は免れるわけもなく。
「この時期にこんな点数取っていいと思ってるのか!?」と絞られたんだけど、逆に先生は私が『やっちゃった!まあいっか!』なんて思うと思ってるんだろうか?私だって仮にも受験生だぞ??
夏休み補習申し込みの案内を手渡され、真剣な眼差しで「お前の席は俺の真ん前に準備しておくからな」と言われた。よく見ればもう『参加』の文字に何重もの丸が書かれてある。私の出席は強制的なものらしい。
(……本当は)
本当は勇気を出して夏祭りに誘いたいな、なんて思っていた。
貴重な高校生活最後の夏休みに夜久との良い思い出を作りたかった。
そんなことを考えてしまえば人間、欲というものが出てくるもので。練習を見に行きたいだとか差し入れを持って行きたいだとか、いろんなところに一緒に出かけたいだとか。
ただの友だちっていうポジションだと叶わない欲望が次々と溢れ出てきて、動けなくて、どうしようもなくなって。
ついにあの日。
ただのとある日。
私のために用意されたみたいな、オレンジ色で包まれた二人きりの教室で私は。
……私は。
何度目かもわからないため息を吐いた。
言わなきゃよかった。欲張らなきゃよかった。
できることならあの日に戻ってまた明日、部活がんばってねって、いつもみたいに。
そうすれば夜久と私は、今だって。
「おやおや?その様子じゃこってり絞られたようで?」
お説教からとぼとぼと教室に戻る途中、馬鹿にしたような声に振り向いた。案の定黒尾がニヤニヤと笑みを浮かべているもんだからわざとらしく肩を落として笑ってみせた。
貰ったばかりのプリントは無意識のうちに力を込めすぎていて両端がシワができてしまっている。
「そんなに悪かったのテスト」
「散っ々」
「ご愁傷さまデス」
「だから夏休み補習ですって。この丸なんてすでに記入されてたからね」
「いや筆圧やばくね」
何重もの先生からの圧に黒尾が吹き出している。
「黒尾は?夏休み部活尽くしだっけ?」
「まぁな。合宿とか練習試合もあるし」
「ちぇ、仲間を作りたかったのに」
「あーいたいた、黒尾ー」
声の主を理解するよりも早く、わかりやすく体が強ばった。
私に気がつくと途端に丸くなり逸らされるその目にツキリと胸を痛ませながら、黒尾にじゃあねと声をかけて足早に通り過ぎた。
涙を溜めた姿を誰にも見られたくなくて、教室へ向かう足をトイレへと進めた。
やだ。……もうホント、いやだなぁ。
「泣かない泣かない!アイツ以上に良い男なんていっぱいいるから!ね?」
二人分くらいの足音が聞こえて個室の中で息をひそめた。
私に気がついているのかと思うくらいタイムリーな話題にヒヤリとしたけど、弱々しく「うん」と返す声に胸を撫で下ろす。
「ね、落ち込まない!大丈夫だから!もう忘れちゃお?」
「わかってるけどすぐ考えちゃうし……どうやって忘れたらいいのかわかんないよ……」
「恋を忘れるには……多分、次の恋だよ!アイツのこと思い出せなくなるくらい夢中になれる恋をしよ!」
「……くよくよしてたってしょうがないよね」
ぐすぐすと泣くその子の声が遠くなるまで私はずっと扉に背を預けたまま立ち尽くしていた。
次の恋、だなんて。
そんなにきっぱり切り替えられるんだったら誰だって、こんなにも落ち込んだりはしないのに。