窓の外からどこかの部活の掛け声が聞こえる。廊下側からは楽器の音。手元ではシャーペンの芯が紙の上で踊る音。
……ああ、また。消しゴムに持ち替えて擦る。この動作を何度か繰り返してしまうほどには今の私は落ち着きがなかった。

季節はすっかり夏ではあるけれど、私の大切な友だちの元には今、まさに春が来ようとしている。

私もついて行くよ!と鼻息荒く言えば、「日誌書かなきゃでしょうが」といっちゃんが呆れ顔で笑っていた。
じゃあ教室で待ってるね。がんばって。いっちゃんの手を握りながらエールを送る私の横を「じゃあ俺は職員室で日誌待ってる。がんばって」と先生が通り過ぎて行った。「この後出張あるからなるべく急いで」とも付け加えて。


(……よし)

書き損じは、ない。と思う。
椅子を引いて急ぎ足で教室を出た。職員室は同じ階の端にある。
途中チラッと一組を覗いたけどいっちゃんの姿はなかった。もうくっついただろうか。ソワソワしながら歩いていると目的地の扉の前を行き来している大きな背中に気がついた。
その長い足といい綺麗な髪色といい、見覚えがある。


「灰羽くん」
「あ〜っ、名字さ〜ん」

眉を下げて見るからに困り顔だ。聞いてみると、プリントを提出するよう言われたのに肝心な先生が見当たらないとのこと。他に知っている先生もいないし、どうしたらいいかわからず途方に暮れていたようだった。

私も覗いてみれば中は疎らで面識があるのはうちの担任くらいなものだ。
彼はまだ入学して数ヶ月。そりゃ職員室は緊張するよね。

「だれ先生?」
「え?っと、相田先生です」

灰羽くんが持っているプリントは世界史。世界史の相田先生ね。
「出しといてあげるよ」と手を出すと、彼は戸惑いつつも目を輝かせた。

「い、いいんですか!?」
「日誌渡すついでに担任に席聞けるし。任せてよ」

あるはずのない尻尾がブンブン揺れているのが見える気がして笑ってしまった。受け取ったプリントに目を落とす。ダイナミックな字にも口元がゆるんだ。

「今日は部活、絶対遅れんなって言われてたんで俺、怒られるーって!焦ってて!」
「まだ間に合う?」
「間に合わせます!」

しっかりと頭を下げて駆け出す背中にもう一度笑みがこぼれる。先生怖いのかなぁ。それか怖い先輩がいるのかも。
灰羽くんにどの部活に入っているのか聞いたことはないけど、とっても背が高いしバスケ部かなと密かに思っている。お昼休みにもバスケしてたくらいだし。

「名字さーんっ!」

踊り場に消えたはずの灰羽くんがぬっと顔を出している。

「ほんとにありがとう!さよーなら!」

大きく手を振る姿もまた可愛い。クスクス笑って同じように手を振った。

さてと。職員室に入ってまずは日誌を手渡した。そして次は相田先生の、と思っていたら、口にする前に担任が離れた席を指さして教えてくれた。どうやら会話は丸聞こえだったらしい。相田先生の机に灰羽くんのプリントを置いて、ノルマクリアだ。

いっちゃんはもう戻ってきているかもしれない。来た道を戻って五組の中を覗く。いっちゃんはいなかった。代わりに別の人がいた。


「あ……あれ、どうしたの」


足立くんだ。
眼鏡の奥の瞳が私を捉えてまた手元のスマホに落ちていく。「忘れ物」と短く返された。

ここだけの話、思ったことを何でもストレートに言ってしまう足立くんは元々、私の中では少し苦手な人として分類されている。
親しい人が数人いれば後はどうだっていい<^イプと思わしき彼にとっては、私は間違いなくどうだっていい方の人間だ。人類誰しも備わっているはずの優しさを彼から向けてもらった記憶はない。

そんなわけでこの二人だけの空間にオロオロとしてしまうのも無理なかった。
いっちゃんもまだ来ていないし、足立くんも出ていってくれる様子はない。無言の重たい空気(私だけが感じているのかもしれないけど)を払うべく、何やら難しい顔でスマホを操作している足立くんにそっと声をかけてみた。

「プリンありがとね。二つも」

目がこっちを向いた。それはすぐに画面に戻っていったけど、思ったよりも柔らかな声で「美味かった?」と問いかけられた。
勝手に別に∴齣だと思っていた私は一瞬狼狽えてしまった。

「う、うん。美味しかった。とろーっとしてて、生クリームもいっぱいでなんか、とろーんって」
「ふっ。幼稚園児みたいな感想だね」
「よ、っ……そうですね」

悔しいけど何も言い返せる気がしない。
力無く自分の席に座ると「帰んないの?」と聞かれた。
そっちがね……!と返しそうになるのをぐっと呑み込んで、いっちゃんを待っていることを伝えると思いもよらない言葉が返ってきた。

「池田さんならさっき伊藤と帰ってくの見たけど」
「えっ?うそ、ほんとに?」
「連絡とかきてんじゃないの」

慌てて鞄からスマホを取り出す。待ち受け画面にはlimeの通知があって、そこには確かにいっちゃんの名前が表示されている。

「ほ、ほんとだ……」

『ごめん、伊藤くんとそのまま一緒に帰ることになった!教室行ったんだけど名前いなくて』というメッセージの後に、泣いているスタンプと土下座のスタンプが送られてきている。
日誌を書くのに必死で全く気がついていなかった。今更だけど『謝ることないよ!楽しんで!明日詳しく!』と打ち込んで、投げキッスをするキャラクタースタンプも一緒に送信した。

深くため息をついて椅子にもたれた。
いっちゃん、伊藤くんと付き合うんだ。おめでたいなぁ。よかったなぁ。

……いいなぁ。

ハッとして頬を叩いた。
そういう妬みみたいなの、良くないんだってば。
それとこれとは別って言ったのは私だし、それは嘘じゃない。絶対に。


「え、大丈夫?」

足立くんの声がして我に返った。

「何で今ほっぺ叩いたの」
「……い、戒め」
「戒め」
「ごめん何でもない。大丈夫」

それならもう早くここから立ち去ってしまおう。机の上の物を鞄に詰め込んでチャックを閉める。
それを背負って、帰りの挨拶をしようと足立くんを見れば、ちょうどスマホをポケットにしまうところだった。


「途中まで帰らない?」


……なんて?
今、とんでもない事を言われたような気がする。
トチュウマデカエラナイ……??
何でまた?どうだっていい方の人間と?そんな疑問が頭をグルグル駆け回り始めて頭がクラクラした。

「ぶ、部活は?」
「テニス部三年はみんな引退済み」
「あ、そ、そっか……」

言われてみれば伊藤くんももう帰ってるわけだしそりゃそうか。っていうか足立くんもテニス部だったっけ。
なるほどね〜あはは、じゃあまた明日ね〜なんてそそくさと帰れたらよかったのに。

「で、どうすんの?」

断り方なんて全然知らない。
何で二人で……誰か助けて……と少し泣きそうになりながらも頷くことしかできなかった。





変な感じだ。いつもと同じように靴を履き替える私の隣で足立くんがローファーの先をトントンと鳴らしている。
未だに混乱している私なんて全く気にもとめず、何なら普段と変わらない。男子と一緒に帰るって一大イベントだと思ってたけど、世間一般的にはそんなに騒ぎ立てるほどのものではないのかもしれない。

でも。私は時々、本当に時々、夜久と一緒に帰る機会があって、舞い上がっちゃうくらいに嬉しかったことを思い出した。
他愛ない話を分かれ道寸前までして。二人で笑い転げて。
名残惜しいなと思うのに、また明日な、気をつけて帰れよって笑顔で手を振ってくれるのが好きだった。本当に、好きだった。


「伊藤嬉しそうだったよ」
「へっ?なに?ごめん」
「伊藤。二年の初めくらいから池田さんのこと気になってたんだって。当たって砕けるつもりだって言ってたし多分明日めちゃくちゃ惚気られる」

ああ、伊藤くんの話か。
告白されたって聞いたときはそんな突然……ってびっくりしたけど、そっか、去年からずっと好きだったんだ。それならすごく嬉しかっただろうなぁ。

伊藤くんといっちゃんの気持ちの大きさはまだ違うかもしれないけど、これから一緒に過ごすうちにきっと同じものになっていく。なれそうだから、いっちゃんだって満更でもないリアクションだったわけだし。
最初からそのつもりがなければいっちゃんだってすぐ断ってたと思う。
あの日の夜久がそうしたように。


「伊藤くんってどんな人?優しい?私よく知らなくて」
「良い奴だよ普通に」
「そっか。じゃあ何も心配することないね」
「そっちは?」

不思議に思って顔を見上げた。

「何が?」

問いかけると、足立くんは少し黙ってから「なんでもない」と静かに言った。


違和感を残したまま


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