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《死柄木弔 side 》
──── どうしても、忘れられない女がいる。
その女が忘れられないというか、「その女の瞳が忘れられない」かもしれない。
たった一度会っただけ、そしてそれももう数ヶ月前になる。
だがあの時の光景は、今でも鮮明に覚えていた。
──── 数ヶ月前、突如としてその女は俺の前に現れた。
?「大丈夫、ですか?」
死柄木「……は?」
体に打ち付けられる雨が突然止むのと同時に、降ってきた声。
ゆっくりと顔を上げると、そこにいたのは中学生くらいの制服を着た女だった。
眉を下げて、俺に傘を差し出している。
公園でただじっと雨の中座り込んでいる俺を見れば大概は怖がるはずだが、その女はしっかりと俺を見ていた。
碧い、瞳だった。
?「そのままだと風邪引いちゃいますよ。今の時期に風邪を引いたら大変ですよ、インフルエンザとかになっちゃいますし……酷いと、肺炎とか」
そう言って、その女はぐいっと俺にもう一度傘を差し出す。
見知らぬ男に傘を差し出すなんて、なんて愚かな奴。
コイツは、今の世の中が生んだ偽善者気取りの愚かな奴だ。
……だが、今日の俺は変だった。
いつもならムカつくのに、フツフツと怒りが湧いてくるはずなのに。
碧い瞳に見られて這い上がってきたのは、怒りではなく安らぎにも似た感情。
……なんだ、これは。
訳が分からず、ガリッと首に爪を立てる。
死柄木「……何?くれんの?」
?「はい!私、折り畳み傘がありますし、あとは帰るだけなので大丈夫です。じゃあ、私はこれで……」
そう言って傘を置き、立ち去る女。
死柄木「待てよ」
呼び止めれば、その女はピタリと足を止めて振り返った。
死柄木「……なんで、お前はこんな事をするんだ?」
碧い瞳が困惑したように揺れた。
だがそこに、恐怖の色は無い。
何なんだ、コイツの瞳は。
?「なんでって……今は酷い雨ですから」
死柄木「……ふうん。それで話しかけたの?俺に?」
?「はい。風邪とか、変な病気にかかってほしくないですし」
コイツ、頭おかしいんじゃねえのか。
そんな理由で、公園のベンチに座って雨に打たれてる男に声かけるか?気味悪がって近づかないだろ、普通。
なのにわざわざ話しかけて、傘まで渡してくるなんて。
瞳以外は何の特徴もない平凡な女だと思ったが、マジでイカれてるだろ。
いかにも俺を心配するような顔。
その表情にはイライラするのに、コイツの碧い瞳を見ると衝動が収まる。
イライラするのに、コイツの碧い瞳に見つめられると酷く心地がいい。
なんだよ、この矛盾は。
死柄木「……死柄木弔」
?「え?」
死柄木「俺の名前。お前は?」
名前「え、あ……風花名前です」
死柄木「風花名前……ふうん」
ああ、やっぱりコイツは馬鹿だ。
見知らぬ男に簡単に名前を教えるなんて、お人好しにも程がある。
死柄木「傘、借りるわ。……なぁ、風花。お前に一つだけ教えてやるよ。この傘の礼にさ」
名前「え……?」
死柄木「きっとお前はこの先も、誰にでも同じように傘を差し出す。見知らぬ男でも、ホームレスでも、ボロ雑巾みたいになって捨てられた犬にも。……でもさぁ、みんながみんな、お前みたいに慈悲深いわけじゃないんだよ。悪意を持ってお前に近付く奴だっている」
名前「は、はぁ……」
死柄木「見て見ぬふりが出来ないお前は、相手に悪意があるかないか、その区別が出来ない。だからお前は相手の悪意にすら気付かず、それを守ろうとする」
ここまで言ってもその女はじっと俺を見つめていた。
名前「……独特の世界観をお持ちなんですね」
死柄木「はは、何それ」
名前「ご忠告、ありがとうございました」
碧い目をパチクリさせたあと、目を細めて笑う女。
やっぱりこいつは変な女だ。
悪意を知らない、真っ白な女。
死柄木「この傘はそのうち返すよ」
名前「えっ?いえ、あげますよ、ビニール傘ですし……」
死柄木「いや、返す。……お前には、そのうちまたどこかで会える気がするから」
名前「……予感ですか?」
死柄木「そう、予感」
何となくだけど、コイツにはまた会えると思った。
女のこの不思議な碧い瞳に、俺は知らず知らずのうちに惹きつけられているのかもしれない。
──── あの日から数ヶ月。
今日もあの女の瞳は俺の脳裏に蘇る。
真っ白なアイツを黒く染め上げるのを想像するだけで、ゾクゾクと快感が入る。
アイツをこっち側に、引きずり下ろしてやりたい。
あの瞳が苦しみに歪んで、黒く染まるのを見てみたい。
アイツには、そのうちまた会える気がする。
その時はもう、すぐ近くまで来ていた。
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