銀桜録 新選組奇譚篇 | ナノ


2

─── その日の夜。

辺りはいつもよりも静まり返っていて、なんだか不気味な夜であった。
何故か今日はなかなか寝付けなくて、名前は布団の上で何度も寝返りをうつ。

その時である。
部屋の前を、静かに誰かが通り過ぎた。
こんな夜中に一体誰だろうか、井戸や厠は逆方向だが。

そっと部屋の障子戸を開けて外の様子を見る。
すると一瞬目に入ったのは、山南の背中だった。
その背中はちょうど角を曲がって見えなくなってしまう。
あの角を曲がればそこには広間しかない。
こんな時間に広間へ?
一体何をしに行くのだろう。

何となく不安が頭を過ぎり、名前は咄嗟に刀だけ持って部屋を飛び出した。
足音を立てぬよう気配を消して広間へ向かい、こっそりと広間の中を覗き込んだ。


山南「……其処にいるのは誰です?」


冷たい声に名前の心臓がドキリと跳ねた。
どうやら気配を察知されていたらしい。
これでは隠れていても意味がないので、大人しく彼の前に姿を現す。


名前「……すみません、山南さん」

山南「……ああ、名前さんでしたか。それならば良かった」

名前「……どういう、意味ですか……?」


山南は、最近の暗い顔が嘘だったかのように晴れやかな表情だった。
普段ならそれは喜ばしい事なのだろうが、しかしこの場においてその表情はあまりにも不自然で、余計に不安を掻き立てられる。
名前が発した声は、微かに震えていた。


山南「……漸く決心がついたのです」


そう言った彼の手の中で揺れたそれは、
─── びいどろの小瓶に入った、禍々しい程に赤い液体。

思考が追いつかない。
まるで何かの呪いにかかったように体が動かない。
何を……
彼は、一体何を。


山南「……綱道さんが残した資料を基にして、私なりに手を加えたものがこれです。原液を、可能な限り薄めてあります。薬の調合が成功してさえいれば腕は治ります。気も狂わずに」


静かに、名前を諭すような穏やかな声だった。
バクバクと、心臓が飛び出てきそうな程に名前の動悸が早まる。


名前「まっ…待ってください!そんな危険な賭けは駄目です、止めてください!!」

山南「こうでもしないと、私の腕は治らないのですよ!!」


悲鳴にも近い声を上げた名前は、ピシャリと鋭い言葉で殴られた。
その剣幕に、名前は思わず口を閉じる。
そんな彼女を見て、山南は静かに微笑んだ。


山南「……見つかったのが貴方でよかった。私が狂ったら直ぐに斬り捨てて下さい」

名前「なんでっ……!!お願いっ、止めてください、山南さん!!」

山南「私は最早、用済みとなった人間です。剣客として死に、ただ生きた屍となれと言うのであれば……人としても、死なせて下さい」

名前「駄目っっっ!!!」


固まっていた体が何とか動くようになり、足を縺れさせながらも山南へ手を伸ばす。
─── しかし。
名前が山南の腕に飛びついたのと、彼が紅い液体を仰ぐのはほぼ同時だった。


山南「ぐ、ううぅっ!!!」


パリンッ、と。
小瓶が滑り落ちて砕ける音がした。
苦しげな声を上げて膝をついた彼のその髪が、一気に白へと変じていく。
目の前の光景が、名前には信じられなかった。


名前「嘘っ……山南さん!!しっかりしてください!!」


頭が混乱していて、そんな言葉しか掛けることができない。
しかし山南の腕にしがみついていた名前の手は、パシッと振り払われた。
触るな、近付くなと。

両手で顔を覆い、苦しげに唸る山南。
その指の間から覗く瞳は ─── 血のような、真紅。


名前「山南さんっ!!」

山南「ぐ、ああああっ……!!!」


その瞳に、恐らく名前は映っていない。


山南「ぐあぁ……ぁ……!」


山南は右手で自分の顔を鷲掴みにしながら苦悶の声を上げている。
しかし指の間から覗く彼の瞳の奥に、一瞬小さな理性の光が灯った。


山南「失敗……したようですね……自分で思うより、私は賭けに弱かったようで……」

名前「山南さん!?大丈夫ですか、しっかりして下さい!!」

山南「人の心配をしている場合ではないでしょう……早く、今のうちに……、私を殺しなさい」


"殺す" ……?
山南を、殺す……?
彼の言っている事が、名前には理解出来なかった。


名前「なに、言って……」

山南「薬は失敗……既に……私の、意識は、なくなりかけています。このままでは、君を殺してしまうでしょう……」

名前「そんなっ……出来ません、そんな事っ……!」

山南「やりなさい…!」


怒鳴ったのを最後に、山南の瞳からは理性が失われた。
そして次の瞬間、山南の手が物凄い勢いで伸びてきた。
その手は、名前の首へ。


名前「さんなっ、うぐっ……!!」


山南の両手は名前の首を掴み、握り潰すように力が込められる。
途端に呼吸がし辛くなり、息が詰まった。
彼の手を引き剥がそうにも、びくともしない。

ぎりぎりと、山南の両手が名前の首を締める。
その目は完全に、狂気に侵されたものであった。
しかし、その時。


名前「……生、きて……山南、さんっ……」


微かな声が名前から零れる。
彼女は、淡く笑っていた。
その瞬間ハッと我に返ったように山南の目に光が戻った。
そして一瞬その手の力が緩んだ時、


土方「 ─── 山南さん!!……っ、!!?」


広間の襖が勢いよく開き、土方を初め沖田や斎藤、原田、永倉、藤堂が駆け付けた。
しかし目の前の光景に土方達の思考は一瞬完全に停止する。
人としての姿を失った山南と、首を締め上げられて宙吊りになっている名前。
その小さな体がどさりと床に落ちた時、ようやく土方達の時間は動いた。


斎藤「名前っ!!」


いち早く飛び出したのは斎藤だった。
沖田や永倉、藤堂が山南を押さえつけて動きを封じる中、斎藤は名前を抱き起こす。
斎藤の腕の中の小さな体は、ぐったりとして動かなかった。
斎藤が彼女の口元に耳を寄せるが、その呼吸は殆ど無に等しい。
斎藤は、己の体からサッと血の気を引くのを感じた。


原田「山崎を呼んでくる!名前、死ぬんじゃねえぞ!」

土方「頼んだぞ原田、急いでくれ!斎藤、名前はどうだ!?」

斎藤「……息が……殆どありません」

土方「なんだと……!?」


土方は、信じられないと言いたげな顔で斎藤の腕の中にいる少女を凝視した。
弱り切ったその少女の姿は、土方の思考すらも停止させていた。

そんな中、動くのは斎藤の方が早かった。
名前をもう一度横たわらせて、首を上へ向かせる。
そして大きく息を吸い、己の口を名前の口へ押し付けた。
何度も息を吸っては、彼女の口へと空気を送り込む。
その意図を瞬時に汲み取った土方は、素早く名前の着物の帯を解いて襟元を肌蹴させる。
そして晒に覆われた胸元を何度も圧迫した。


名前「……っかは、……げほっ、げほっ」

斎藤「っ、名前!!しっかりしろ!!」

土方「おい、聞こえるか!?名前!!」


斎藤が何度目かになる口移しをした瞬間、名前が思い切り噎せた。
長い睫毛が震え、薄らと開かれた瞼から焦茶色の瞳が姿を現す。
焦点の合っていない目は、やがて斎藤を捉えた。


名前「……は、…じ、め……く……」

斎藤「名前!!」


彼女の名前を呼ぶ斎藤のその声は、酷く悲痛なものだった。
動揺、焦り、恐怖、悲しみ。
蒼い瞳は、様々な感情で入り乱れていた。


斎藤「死ぬな、名前……!!」


そんな彼の表情が分かったのだろうか。
意識が朦朧としているはずの名前は、
─── 優しく、微笑んだ。
大丈夫だ、心配するなとでも言うように。
その表情に、斎藤は思わず息を飲んだ。

そして、山崎を連れた原田が駆けつけるのとほぼ同時に。
名前の体からはガクッと力が抜け、再び意識を失ってしまったのである。

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