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─── 元治元年 十二月。
「……局長の妹だからって、贔屓されてるんだろう」
曲がり角の向こうから聞こえてきた、ひそひそとした話し声。
最近になって何度か耳にするようになったそれに、名前はピタリと足を止めた。
ひと月程前からまことしやかに隊内で囁かれているのは、『名前が幹部に贔屓されている』という内容である。
……いや、"隊内で" というのは些か語弊がある。
正確には、"伊東が連れてきた隊士達の間で" だ。
恐らく土方達の耳には入っていないだろう。
伊東の連れて来た者達は、外面だけは良い連中ばかりだ。
用心深く試衛館の面々が巡察に出ている時などを狙い、場所を選んで名前に対しての不満を零しているのである。
それなのにも関わらず名前がこの件を知っているのは、数日前に隊士達が話しているのを偶然聞いてしまったからだ。
運が良いのか悪いのか分からない。
だが名前は、こういった類のものは相手をするだけ時間の無駄だと考えている。
今のところ耳にしているのは、『大した実力も無いくせに局長の妹だから贔屓されている』という内容だけだ。
彼等が名前に特に危害を加えてくる訳でもないので、名前は殆ど気にしていなかった。
名前は曲がり角の影に隠れているため、その隊士達は気付いていないらしく、そのまま会話を続けている。
名前は何となくその場に残り、その話に耳を傾けていたのだが。
「……いや。色目を使って取り入ったんじゃないか?」
その針のような言葉に。
一瞬息をするのも忘れていた。
「試衛館とかいう道場にいた時から女一人だったんだろう?だったら体を使って取り入ったに決まっているさ」
「ああ、成程。だから副長もあの女を傍に置くのか」
「組長達も皆骨抜きにされてるんじゃないのか」
……久しぶりかもしれない。
自分を批判する声を聞いただけで、黒い感情が湧き上がってくるのは。
屈辱だった。
確かに剣の実力は皆よりも劣るだろう。
副長補佐としても自分は未熟だ。
女で未熟である自分がこの地位を貰えたのは、同郷のよしみだからという理由も多少は含まれていると思う。
『近藤勇の妹』、『副長補佐』、その肩書きによる重圧をいつだって感じている。
だからこそ、肩書きだけだと思われぬように努力をしてきた。
自分は新選組であると、胸を張って言えるように努力をした。
土方は『お前の能力を買っての采配だ』と言っていた。
人を評価する事に関して嘘をつくような男ではない。
自惚れているわけではないが、副長補佐を任せてもらえたのは自身の努力が少なからず身を結んだからだと思っている。
それなのに ─── 。
体で役職を、居場所を買ったと?
ふつふつと湧き上がるのは怒りだった。
自分の命は近藤達の為に使うと腹を括って此処にいる。
その為に、たった一人の友人をも斬らなければならなかった。
胸が張り裂けるような思いもした。
それなのに。
あんたらに、何がわかるというのだ。
「容姿はなかなかのものだからな」
「剣技よりも其方の方が上手いのだろう」
「いっその事、俺達もお相手を頼んでみるか」
「此処の者達は女に飢えているだろうからな、他にも手を出している奴等はいるだろう。俺達が襲ったとてバレる事はあるまい」
……なんだ、これは。
心臓の波打つ音が異様に大きくて、速い。
息が出来なくなった。
怒りなど、あっという間に恐怖が追い抜いて。
ミシッ、と。
足元がふらつき、床が軋んだ。
まずい、と自分でも気付く程の音。
彼等が気付かぬ訳が無い。
「っ!誰かいるのか!?」
ああ、まずい。
今出て行ったらどうなる?
今すぐ逃げ出したいのに、足が動かない。
血の気が引いていくのがわかった。
心が、徐々に凍てついていく ─── 。
「 ─── さっ、斎藤組長!?」
ハッと我に返る。
思わず耳を疑った。
どうやら隠れて話を聞いていたのは名前だけではなかったらしい。
「い、いつからそこに……!」
斎藤「……『局長の妹だから贔屓されている』とあんた達が話していた辺りだ」
要はほぼ最初である。
名前からは伊東の取り巻きの連中の顔は見えないが、酷く狼狽えている事は伝わってきた。
当然だ、彼等は今まで幹部には媚びへつらっていた輩なのだから。
斎藤「先程の発言は捨て置けぬな」
「い、今のは、そのっ……」
その瞬間その場に漂ったのは、斎藤の殺気。
向けられているのは自分ではないのに、名前までもが思わず息を飲んでしまう程の殺気だった。
斎藤「あんた達は、彼女がどれ程の覚悟を持って此処にいると思っているのだ。少なくとも彼女は、人の陰口を叩くような生半可な覚悟で此処にはいない。彼女が、どれ程の困難を乗り越えて今此処にいると思っているのだ。彼女の強さは本物だ。彼女を、侮るな」
殺気に包まれた中で。
堪え切れなかった一筋の涙が、名前の頬を伝った。
嬉しかった。
寡黙な斎藤が、名前の為に怒ってくれている。
名前には、彼のその言葉だけで十分だった。
彼の言葉だけで、一生生きていける気さえした。
斎藤「もしあんた達が彼女に手出しすれば、それは隊規違反となる。士道不覚後で切腹だろう」
「……っ、」
斎藤「……否、女子を襲うなど切腹する価値も無い。俺が、容赦せぬ」
声しか聞こえないにも関わらず、凄まじい程の殺気だった。
斎藤がこれ程怒りを露わにするのは本当に稀だ。
「すっ、すみませんでした!!以後気をつけます故、どうか御勘弁を!!」
斎藤「……ならば早く行け。人にあれこれと口を出したければ、まず相応の強さを身につけろ」
「はっ、はい!」
ばたばたと慌ただしい足音が聞こえて、男達が去って行くのがわかった。
その足音が完全に聞こえなくなると、斎藤の小さな溜息が耳に入る。
そして、
斎藤「……名前、居るのだろう?」
……どうやら、疾っくに気付かれていたらしい。
慌てて手の甲で涙の跡を拭い、恐る恐る曲がり角から顔を覗かせる。
斎藤「……いつから聞いていた」
名前「……一君と同じくらいから」
斎藤「……そうか」
場所を変えようと言われて斎藤について行けば、やって来たのは名前の部屋である。
伊東の取り巻きがあんな話をしていた後だ、名前を送り届けてくれたのだろう。
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