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─── 元治元年 六月。
枡屋を訪れたその常連客は、見慣れぬ娘に目を付けた。
愛らしい顔立ちでありながらも凛とした雰囲気の漂った、美しい娘だった。
「おっ、お前さんが此処の看板娘っちゅー最近噂の人かえ?」
?「いえ、そんな大層なものではございませんよ」
「そねーに謙遜しんさんな、噂通りの美人じゃのお」
?「ふふふ、ありがとうございます」
「ほな、また来るわ」
?「ええ、いつもありがとうございます」
常連の客を見送ったその娘は、深々と頭を下げた。
そんな娘に声をかけたのは枡屋の店主・喜右衛門である。
枡屋「ありがとうな、おそよ。ご苦労さん」
そよ「いえ!旦那様には御恩がありますから。私は少しでも旦那様のお役に立ちたいんです」
枡屋「お前さんはほんまに健気やのぉ。やけどそんなに気張らんで、もっと肩の力抜きぃ」
そよ「はい、ありがとうございます。……あっ、そろそろ時間なので使いに行ってまいりますね」
枡屋「いつもすまんのぉ、頼むわ」
そよ「はい!」
ふわりと優しく微笑んだ、"おそよ" と呼ばれたその娘。
その娘の髪では、キラリと桜柄の玉簪が輝いていた。
"おそよ" の正体は、間者として紛れ込んでいる名前であった。
名前が枡屋に潜入して、もうひと月以上が経つ。
出稼ぎに来た娘・おそよを装い、見事枡屋の店主に気に入られた名前は此処で働き、たったひと月で看板娘にまで上り詰めていた。
しかし、その生活も今日で終わりだ。
情報を仕入れて役目を終えた名前は今日、この場を去る事に決めていた。
情報というのは例の謀に関してである。
この店の店主・枡屋喜右衛門の正体は、長州志士の古高俊太郎。
そしてこの枡屋にも何人か長州の人が潜伏しており、彼らは倒幕の決死の一団であったのだ。
彼らの目的は、朝廷における毛利候の信望を回復して再び長州の天下とし国論を左右したいというもの。
その為に京へ忍び込み、機運の塾するのを待っていたというわけだ。
土方の読み通り、面白いくらいに彼等は名前にぺらぺらと計画を話してくれた。
この情報を掴んだ名前は、二日前に店の近くで変装して見張りをしていた山崎にこの内容を記した文を渡した。
名前の役目はこれで終わりだ。
使いに行く振りをして、今日の巡察当番である沖田と落ち合う予定である。
名前「では、行ってまいります」
枡屋「ああ、気ぃつけや」
名前「はい!」
全てが順調であった。
─── この瞬間までは。
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