銀桜録 新選組奇譚篇 | ナノ


2

二日後。

朝早くに屯所を発つ事にしていた名前は、日が昇る前から準備をしていた。
初めて着る美しい着物に手を通す。


名前「……わ、」


その色は名前にしっかりと馴染んでいるように見える。
お梅の見立てた通りだと思うのと同時に、何だか寂しくなった。
初めて着るこの着物を潜入捜査に利用するとは……何だか複雑な気分だ。

しかしこの着物は派手すぎることも地味すぎることも無いため、町娘には丁度いいだろう。
あくまでも出稼ぎの為に地方から来た町娘を装うつもりなので、化粧はしなかった。
というか、化粧道具を持っていないのだが。

そして久しぶりに試衛館に居た頃のような髷を結っていると、部屋の外に人の気配を感じた。


斎藤「……名前」

名前「えっ、一君!?」

斎藤「入っても良いだろうか」

名前「あ、うん!どうぞ!」


外にいたのは斎藤であった。
こんな早朝に一体どうしたのだろうか。

するすると静かに障子戸が開く。
そして名前を視界に入れた斎藤はピタリと時が止まったように固まってしまった。


名前「おはよう。もう起きてたんだ、早いね」

斎藤「……」

名前「……一君?」

斎藤「っ!」


声を掛けても、斎藤は微動だにしない。
ただじっと名前を見つめていた。
不思議に思って名前が斎藤の顔をひょいと覗き込めば、ようやく彼は我に返ったようだった。


斎藤「……す、すまぬ。つい、」


何かを言いかけて、ハッとしたように口を閉じる。
魅入ってしまっていた、と正直に打ち明けそうになってしまったからだ。
勿論それは声にならなかったためにその言葉は伝わらず、名前は不思議そうに首を傾げていた。


斎藤「……もう、発つのか?」

名前「うん、準備でき次第行く予定」

斎藤「そ、そうか……」


何やら斎藤は、珍しく緊張している様子だった。
緊張しているというか……何故か目が泳いでいる。


斎藤「……そ、その……あんたに、渡したい物がある」

名前「渡したい物……?」

斎藤「……お、俺はあんたの好みを詳しく把握している訳では無い故……あんたの好みからは、外れているかもしれぬ……それでも、良いだろうか」

名前「うん、全然!なあに?」


例え好みだろうが好みでなかろうが、斎藤から貰える物ならば何だって嬉しいというのが名前の本音である。
斎藤は名前の返事を聞いても暫く目を泳がせていたが、やがて意を決したように真っ直ぐに名前を見つめた。


斎藤「……手を、出してもらえるだろうか」

名前「…?うん」


言われた通りに両手を出せば、斎藤の手がそっと何かを置いた。
それが何かを認識するなり、名前は思わず声を上げる。


名前「わあっ……!!」


名前の手に置かれていたのは、玉簪だった。
玉の部分は薄桜色と薄い瑠璃色が混ざり合っている幻想的な色合いで、桜模様が施されている。
まるで朝焼けの空に浮かぶ桜のようだった。


名前「……綺麗……」


思わず溜息が零れてしまうほど、美しい簪だった。


名前「……これ……どうしたの?」

斎藤「……昨日、小間物屋に押し入った浪士を捕縛したところ、店主に何か礼をしたいと言われてな。……あんたが潜入捜査へ行くと言っていたのを思い出し、一つ、簪を貰ったのだ」

名前「えっ……じゃあ、わざわざ私の為に……?」

斎藤「……御守りになればと、思った故」


若干頬を赤らめている斎藤だが、部屋が薄暗かったためそれは運良く伝わらなかった。
一方で、名前は大喜びである。
成り行きとはいえ、斎藤がわざわざ名前の為に選んでくれたのだ。
嬉しくないはずがない。


名前「ありがとう、すっごく嬉しい!私、こういうの大好き!」

斎藤「そ、そうか」

名前「うん、凄く!付けてみてもいい?」

斎藤「ああ」


今にも飛び上がりそうな(実際少し飛び上がっていた)くらい喜び、名前は早速頭に簪を差した。


名前「えへへ、どうかな」


頬が緩んでへにゃりと笑った名前の頭には、しっかりと簪が挿さっている。
美しい桜が咲いていた。
何だか彼女の美しさがさらに増したような気がして、斎藤は思わず息を飲んだ。
そんな斎藤の様子には気付かず、一人で舞い上がっている名前。
それを見た斎藤は、ゆっくりと口を開く。


斎藤「……よく、似合っている」

名前「……えっ、」


今度は名前の動きが止まる番であった。
斎藤の優しげな瞳に見つめられ、心臓が爆発するのではないかと思うくらい高鳴った。
ボッと火がついたような勢いで名前の顔に熱が篭もり、耳まで赤くなってしまっている。
しかし名前は赤い顔のまま、ふわりと笑みを浮かべた。


名前「ありがとう。私、一生大切にするね」

斎藤「……気に入ってもらえたようで、良かった」

名前「もう、すっごく嬉しいよ!これがあれば、絶対頑張れる!」


意気込んだ名前に、斎藤は真剣な眼差しになった。


斎藤「……名前。潜入捜査というのは命懸けだ。それも長州の浪士の元へ間者として行くのならば……もしあんたの正体が暴かれれば、奴等も容赦はしないだろう」

名前「……うん。分かってる」


斎藤は、名前を脅している訳では無い。
過激な尊攘派である長州の浪士の元へ飛び込むのは、一歩間違えれば命を落としかねない程に危険な事なのだ。
それを分かっているからこそ、名前もきゅっと顔を引き締めて頷いた。


斎藤「……名前。絶対に死ぬな。生きて、必ず戻って来い」

名前「うん、約束する。絶対帰ってくるよ」

斎藤「……ああ、約束だ」


斎藤はそっと名前に手を伸ばし、彼女の頬を撫でる。
ほんのりと熱が籠っている名前の頬に、ひんやりとした斎藤の指の感触が伝わった。


名前「……絶対大丈夫だよ。だって、こんなに素敵な御守りがあるんだもん」


そう言うと名前は含羞んで、己の頭に挿している簪にそっと触れる。
斎藤から貰った物だからか、何だか斎藤に守ってもらっているような気がした。


斎藤「……そうだな」


斎藤も小さく笑みを浮かべる。
しかし、その時であった。


藤堂「……ちょっ、押すなって新八っつぁん!」

永倉「そりゃこっちの台詞だ、平助!」

原田「馬鹿、あんまりでけぇ声をだすんじゃねえよ!聞こえちまうだろ!」

沖田「そういう左之さんもね」


……何やら廊下が騒がしい。
障子戸の向こう側でひそひそと話しているようだが、名前と斎藤には丸聞こえである。
途端にスッと斎藤の目が冷静さを帯び、それと同時にスパーンッ!と勢いよく障子戸を開けた。


藤堂「うわっ!!?」

永倉「げっ!!」

原田「うおっ、斎藤!!」

沖田「ほら、気付かれちゃったじゃない」


分かってはいたが、廊下には藤堂と永倉、原田に沖田。
何をしてるんだと目を瞬かせる名前に対して、斎藤は冷めきった目で四人を見下ろしている。


斎藤「……盗み聞きとは、良い度胸をしているな」

藤堂「えっ!?いやいやいやいや!誤解だって、一君!!」

原田「お、おう、そうだ!そんなんじゃねえよ!」

沖田「盗み聞きだなんて人聞きが悪いなぁ。名前を見送りに来たら先客がいるみたいだったから、順番待ちしてたんだよ」

永倉「そ、総司の言う通りだ!勝手に聞こえてきたんだよ!」


斎藤からの鋭い視線とその圧に、藤堂や原田、永倉はタジタジになって言い訳をしている。
沖田は相変わらず悪びれる様子はなく、平然としていた。


斎藤「……何か言い残す言葉は他にあるか?」

藤堂「ちょっ、待てって!待ってくれって一君!」

原田「お、落ち着け斎藤!!悪かったって!!」


恐ろしい宣告が聞こえてきて、藤堂達は途端に青ざめた。
しかし、こんな状況でも顔色を変えない者が一人。


沖田「……で、一君。そろそろ名前を借りたいんだけど、逢い引きは終わった?」

斎藤「っ!!?」

名前「えっ!!?」

永倉「馬鹿、総司!!火に油だっつの!!」


『逢い引き』という言葉に斎藤は切れ長の目を見開き、名前は再び赤くなった。


斎藤「……覚悟は出来ているようだな」

藤堂「うわーーっ!!?ちょっ、一君!!落ち着いてくれよ!!」

原田「おい、悪かったって!!だから刀を握るな斎藤!!」


ほんのりと染まった頬を見られぬように襟巻に顔を埋めた斎藤は、静かに刀の柄に手を添えた。
それを見た藤堂からは悲鳴のような声が上がり、原田も焦ったように斎藤を説得しようとしている。
いつもと変わらぬ賑やかなその光景に、名前は思わず吹き出していた。


土方「うるせえぞお前ら!!こんな朝っぱらから騒ぐんじゃねえ!!!」


そして、最終的には騒ぎを聞きつけて起きてきた土方にこってりと絞られた。
こうしていつも通りすぎる朝を迎えながら、名前は屯所を後にしたのであった。

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