銀桜録 新選組奇譚篇 | ナノ


3

名前「……実は私、養子なんです。五歳の時に試衛館に来ました。私、自分と血が繋がっている人を知らないんです」


山南の右手を優しく撫でながら、名前は静かに語り始める。
山南は少し驚いたような表情をしていたが、何か口を挟むことはなく、ただ黙って名前の話に耳を傾けていた。


名前「一番古い記憶は女衒に連れられている時の記憶です。手を縄で縛られて、二人の男に叱咤されながらひたすら歩いていました。それ以前の記憶は何故か無くて、両親の顔も覚えていませんし兄弟がいるのかも分かりません。それどころか、自分の名前と出身地すら思い出せなかったんです」

山南「……貴方が、女衒に……」

名前「色街に売られる予定だったみたいです。だけど何とか逃げ出して、ちょうど出稽古から戻ってきた父様と兄様に助けてもらったんです。"近藤名前" という名前は、父様に頂いた物なんです」


あの時、名前はひたすら逃げていた。
後ろから迫り来る恐怖から、ひたすら逃げていた。
そんな時に出会ったのが近藤と、その父の周斎であった。
名前の泥で汚れた体と縄できつく縛られた手を見て異変を察した二人は、すぐに名前を試衛館で保護してくれたのである。
そして名前に行く宛てが無いと知るなり、周斎は名前を養子として迎えた。


名前「だけどあの時の私は、父様と兄様を信じられませんでした。役立たずだと思われたら、すぐに色街へ売られると思っていました。父様と兄様が、怖くて仕方なかったんです。だから、毎日必死に働きました」


掃除、洗濯、草むしり、お使い、その他の雑用。
齢五歳にして、全てを自ら引き受けた。
喜怒哀楽を表に出さず、ひたすら働いた。
そして近藤達には『ご飯は食べている』と嘘をつき、食欲旺盛な兄弟子達に自分の飯のほとんどをあげていた。

日に日に痩せ細っていく名前を見かねた近藤や周斎に、声を掛けられたことも多い。
しかしそれは名前に対して、用済みだと宣告されるのではないかという恐怖を植え付けており、何かと理由をつけて彼らの前から逃げては必死に働いた。

しかしある日、ついに名前は近藤に尋ねられた。
何をそんなに怯えているのか、と。


名前「兄様達が怖いだなんて、初めは言えませんでした。だけど兄様は、辛抱強く私の言葉を待ってくれました。『俺は絶対にお前を打たないし怒らない。だから教えてほしい』って、私の目線に合わせて屈んで言ってくれたんです」


しかしそれでも最初の頃の名前は、青ざめて震えるだけであった。
それを見た近藤はその日は深く追及せずに引き下がり、そしてまた次の日に声をかけるということを繰り返したのである。
毎度のように、『お前を打たないし怒らない』と言って。
ただ声をかけてくれるだけではなく、時には本を読み聞かせてくれたり、名前を散歩に連れ出して植物や動物の名前を教えてくれたりもした。


名前「……数ヶ月経ってから、何とか打ち明けました。兄様達が怖い、何でもするしもっと働くから売らないでくれって。そしたら兄様は……泣きながら、私を抱き締めてくれたんです」


あの時、近藤は涙を流した。
まだ齢五つの幼い少女が抱えていた恐怖に、近藤自身が全く気づけなかった事を責めての涙だった。
名前が近藤の涙を目にしたのは、あの日だけだった。


名前「それで、兄様が言ってくれたんです。『例え国が傾く程の金を積まれようが、お前の事は絶対に売らない』って。……どうして、と聞きました。そしたら兄様は、『お前は大切な妹だから』って言ってくれました」


名前は女衒の男達に何度も怒鳴りつけられた。
だが殴られたりする事はなく、食事も三食与えられた。
しかしそれは、名前を売り物として見ていたから。
あの男達は、名前が金になるから生かしていただけなのだ。
名前が人だろうが物だろうが、金になるならばあの男達にとっては関係無かったのである。
だが、近藤は違った。


名前「初めて私を "物" ではなく "人" として必要としてくれたんです。"私" という存在そのものを、必要としてくれたんです」


その時名前は初めて、人を信じることを学んだ。
差し伸べられた手を、あの大きな手を信じようと誓った。


名前「そして、その時に兄様と一つだけ約束を交わしました。それが、『しっかりご飯を食べて、生きること』でした。『お前が生きてくれているだけで嬉しい』とまで言ってくれて……本当に、嬉しかった」


あの日から名前は、生きることを誓った。
誰かに必要とされているならば、生きなければならないと思ったのだ。
そして近藤が名前を必要としていたように、名前も近藤を必要としていた。


名前「ですから、山南さん」


遠い昔に向けられていた名前の瞳は、再び真っ直ぐに山南を見つめる。


名前「山南さんは私に沢山の事を教えてくれました。私は貴方をお師匠様だと思っています。だけど、それだけではありません。先生として、兄として、仲間として、新選組総長として……それら全部をひっくるめた貴方が必要です。優しくて穏やかで、だけど実は毒舌で結構腹黒くて時々自虐的で、そして私を教え導いてくれる "山南敬助" というお人が、私には必要なんです。私だけじゃない、皆も同じように思っています」


だから、と名前は山南の右手を己の両手で包み込んだ。


名前「だからどうか、生きてください。生きるために、しっかり食事を召し上がってください。"死なない程度" ではなく、健康体でいられるように。どうかお願いします、山南さん」


縋るような、乞い願うような瞳だった。
山南の瞳が揺らぎ、静かに伏せられる。
名前は、ぎゅっと山南の手を握り締めた。

山南が言っていたように、彼の痛みは彼自身にしか分からない。
いくら寄り添ったところで、彼の痛みを隅々まで把握することは不可能なのだ。

しかしそうだとしても、名前は山南に寄り添うだろう。
何度振り払われようと、山南に手を伸ばす。
近藤があの時、名前にしてくれたように。
山南の見えない壁を壊すまで、名前は何度も手を伸ばす。
山南が、名前にとってかけがえのない存在だから。


山南「……分かりました。私の負けです、貴方には敵いませんね」


ハッとして名前が顔を上げれば、山南は困ったような優しい笑みを浮かべていた。
半ば諦めたような物言いだが、先程のような棘は無い。


山南「お膳を此方に持って来て頂けますか」

名前「っはい!」


名前はパッと表情を輝かせると大きく頷いて、入口付近に置いていた膳に飛びついた。
「そんなに慌てずとも私は逃げませんよ」と少し呆れたような山南の声が飛んできたが、別に慌てているわけではない。
山南が食事を取ってくれることが嬉しくて仕方がないのだ。

「いただきます」と挨拶をしてから山南が手を付けたのは、名前が握ったおにぎりである。
一口齧った彼の口元には、穏やかな微笑みが浮かんでいた。


山南「とても美味しいです」


その言葉に、名前は満面の笑みを浮かべて頷いた。
その笑顔を見つめたまま、山南は呟くように言った。


山南「貴方は……まるで花のようですね」

名前「……花、ですか?」

山南「ええ」


きょとんとして首を傾げた名前だが、山南はそのまま言葉を続けた。


山南「貴方は、何故花が美しいのかご存知ですか」

名前「え?花が、何故美しいか……?」


人間は、何故花を美しいと感じるのか。
それは唐突な問いであり、難問でもあった。


名前「うーん……色が綺麗だから……ですかね?」


美しい理由が色が綺麗だから、というのは若干答えになっていないような気もするが、それ以外に思いつかない。
すると、山南はゆっくりと口を開いた。


山南「私はこう考えています。花は見る人を癒しますが、自分は何も求めません。無償の愛に溢れた在り方そのものが、美しいのではないかと」


成程、と名前は納得した。
改めて言葉にされると、共感できるものがあったのだ。

名前は桜が好きだ。
優しく、儚く散っていく姿が好きだった。
身を散らして見る人に感動を与える桜だが、桜自体は人間に何も求めない。
だから自分は桜が好きなのか、と納得してしまうような言葉だったのである。


山南「先程の貴方の言葉……とても嬉しかったです。貴方はいつも人に見返りを求めず、献身的に愛を注いでくれる……貴方の存在は、無償の愛を与えてくれる花のようです。だから貴方は美しいのですね」


名前は、大きく見開いた。
美しいだなんて言われたのは初めてだったからだ。
だが、山南からのその言葉が嬉しくないはずがない。


名前「ありがとうございます!」


そう言って、名前は花が咲いたような笑みを浮かべたのだった。


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