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─── 八月十一日。
名前「ごめんね、付き合ってもらっちゃって」
斎藤「いや、構わぬ。俺も今日は非番だったからな」
昨夜はしっかりと眠って体力を完全に回復した名前。
偶然非番だった斎藤に合わせて午後から休みを前借りで貰い、刀を研ぎ師に出しに行く事にしたのである。
物騒な京を丸腰で歩くわけにもいかず、斎藤に付き添いを頼んだという訳であった。
今は刀を研ぎ師に出してきた帰り道であり、名前と斎藤は菓子屋に寄って土産用の饅頭を買った。
行先は八木邸ではない。
名前「お梅さん、こんにちは!」
梅「あら、いらっしゃい!」
名前達が入ったのは菱屋であった。
元々仕事が落ち着いたら遊びに行くと約束をしていたため、合併興行と佐伯の捜索が終わった今が絶好の機会だったのである。
次はいつ忙しくなるか分からないからだ。
梅「暑かったでしょう、さあどうぞ上がって」
名前「ありがとうございます。あの、これお饅頭です。少しですけど、よかったら」
梅「まあ、わざわざおおきにありがとうございます。今お茶をお出ししますから」
お梅は今日も浮世絵から出てきたように美しい。
"お梅が芹沢に手篭めにされたらしい"
名前がそんな話を耳にしたのはつい数日前の事である。
しかし名前は、その真相を確かめるつもりは毛頭ない。
名前としては、お梅と他愛もない話が出来ればそれでよかった。
お梅にはお梅なりの事情があるのだ、それに深入りするつもりはない。
斎藤「……名前。俺は外で待っている故、終わったら声をかけてくれぬか」
名前「うん、分かった!ごめんね、付き合わせちゃって」
斎藤「いや、構わぬ」
そう言ってお梅に一礼をして店を出て行こうとした斎藤であったが、そんな彼をお梅が引き止めた。
梅「あら、貴方も気にせずお上がりくださいな」
斎藤「……し、しかし……」
梅「外は暑いですし。さあどうぞ、つまらないかもしれまへんけど」
斎藤「……それは、忝ない」
一瞬戸惑ったように名前の顔を見た斎藤。
しかし名前が笑顔で頷いたのを確認すると、静かに名前の隣に腰掛けた。
名前「お梅さん、この人は私の友人の斎藤一君です。今日は付き添いで来てもらってるんです」
梅「まあ、そうどしたか。初めまして、梅と申します」
お梅は斎藤に向かって洗練された仕草で頭を下げた。
斎藤はというと人見知りを発揮してしまっているのか、声を発さずに頭を下げている。
その仕草は折り目正しく非常に丁寧なものであったが。
お梅が名前と斎藤にお茶とお茶菓子を用意してくれた。
お梅も名前も商売経験があるためか、どちらもお喋りで尚且つ聞き上手な部類である。
これで話が弾まない訳がなく、話題は尽きることなく移り変わっていく。
普段から名前は楽しげに会話をする。
しかしやはり女性が話し相手であると、着物の話や化粧、お菓子の話など普段は出来ない女性らしい話が出来るらしく、お梅と話す名前の瞳は普段とは違った輝きを見せていた。
時折名前が斎藤に話を振ってくれるからでもあるが、生き生きとしている名前の様子は見ていて飽きるものではなく、斎藤が退屈することはなかった。
寧ろ斎藤としては、普段よりも穏やかな心地であった。
梅「……ああ、そういえば。名前さん、桜柄の反物が忘れられへんかったって言うてはりましたやろ?少し待っとってくださいな」
そう言ってお梅は一旦店の奥へ入って行き、一つの反物を抱えて戻ってきた。
梅「桜柄やと、これはどないやろか」
名前「……わ、あ……!」
広げられた反物を見て、名前は思わず感嘆の声を零した。
それは桜の花が散りばめられた、薄黄蘗色の反物であった。
明るさと儚さを持ち合わせており、まるで暗い水平線から顔を出したばかりの月のような色。
そして散りばめられた桜が、その美しさを際立てている。
うっとりとした溜息が零れてしまう程、美しい反物だった。
名前だけではなく、斎藤も見入ってしまっている。
名前「綺麗……綺麗です、凄く」
梅「ふふ、そうどすやろ?桜柄やけど、これやったら通年着られるものどす」
名前「えっ、春じゃなくてもですか?」
梅「枝付きや花びらの散っとる桜柄やと、桜の季節になるんやけど……これは、花びらだけどすから」
名前「へえ、そうなんですね!初めて知りました」
さすが呉服屋で働いているだけあって、お梅は着物に詳しい。
柄付きの着物は季節に合った柄を着るものだと思っていたが、まさか通年着られる桜柄の着物があるとは。
名前「凄い……本当に綺麗……」
梅「ふふふ、おおきに。この反物はあんさんによう似合うと思うとったんどす」
名前「えっ、そうですか!?こんなに綺麗な物、私には全然……」
梅「そないなことはありまへん。ほら、」
そう言ってお梅は名前の肩に反物を掛けて見比べている。
梅「ああ、やっぱり綺麗やわぁ。あんさんの顔立ちは可愛らしいさかい、こないな風に明るうて優しい色がお似合いどす」
名前「そ、そうですかね…?自分じゃ全然分からなくて」
梅「よう似合ってはりますよ。これでお化粧もしはったら、きっと京で一番の女子にもなれると思うわぁ。ねぇ、斎藤さん?」
不意に話を振られたせいか、珍しく動揺したらしい。
お茶を飲んでいた斎藤は思い切りむせ返った。
驚いて斎藤の背中を摩る名前と明らかに動揺して顔を逸らしている斎藤を見て、お梅はくすくすと笑っている。
斎藤「……あ、いや、…う、うむ……」
梅「ほら、斎藤さんも似合う言うてはりますよ」
名前「えー!そうかなぁ…。だけどこんな綺麗なものが似合うなんて、凄く嬉しいです」
斎藤が若干頬を赤らめている事に気づいているのはお梅だけだろう。
赤く染った顔を隠すように襟巻きに顔を埋めている斎藤には全く気づく様子もなく、名前は反物に見とれていた。
普段はそれほど物欲の無い名前だが、こんな綺麗な物を勧められてはやはり欲しくなってしまう。
名前「……実は私たち、まだお給金を貰えるようになったばかりなんです。ですから、お金が貯まったら買いに来てもいいですか?」
梅「ええ、勿論どす。その時はお安くしますさかい。この反物も、きっとあんさんに買ってもらえるのを楽しみにしとると思います」
名前「わあ、ありがとうございます!頑張って働かなきゃ!」
梅「ふふふ。でも、体にはお気を付けて」
名前「はい、ありがとうございます!」
給金を貰えるようになったばかりの今の貯金では、この反物には到底手が届かない。
しかし今後も働けば買えないことはないだろう。
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