銀桜録 黎明録篇 | ナノ


2

八月七日。


名前「凄い人出だったねぇ!」

井吹「ああ、結構盛り上がってたな」


未だ佐伯の行方は掴めぬままであったが、着々と準備を進めていた相撲興行は、今日ようやく本番を迎えた。
浪士組の役目は主に会場の警備であり、名前は警備と力士の接待に当たっていた。
こうして土方が中心となって手がけた京相撲と大坂相撲の合併興行は、見事大成功を収めた。
加えて多額の金が収入として浪士組に入ってきたため、金と名声が両方手に入ったという訳である。

大盛況となった興行も無事終了し、名前と井吹、そして斎藤はその片付けの為に八坂神社へ向かっていた。


名前「絶対龍之介が作ってくれた引き札のお陰だよ!みんな引き札につられて来ているみたいだったもん」

井吹「ええ!?」

名前「龍之介は裏の立役者だね!ね、一君!」


名前が振り返れば、その後ろにいた斎藤もゆっくりと頷いた。


斎藤「ああ、そうだな」

井吹「そ、そんなことは…!版木作りも初めてで失敗したところもたくさんあるし、正直時間さえあれば全部作り直したいくらいなんだぞ?」

名前「えっ、そうなの?あんなに上手なのに……龍之介も結構凝り性っていうか、貪欲なんだね」


そんな会話が繰り広げられる中、ふと井吹は思い出したように声を発した。


井吹「……そういえば、斎藤。どうしてあの時、俺に引き札を描かせてくれって土方さんに頼んだりしたんだ?」


斎藤は暫く思案する様子を見せてから、ゆっくりと口を開く。


斎藤「……俺は、生来の無骨物ゆえ、絵のことなどよくわからぬ。ただ…あんたの絵を目にした時、胸の奥を鷲づかみにされたような不思議な心持ちになった。だから、推薦させてもらった。…それだけのことだ」


ぽかんとした表情で井吹は首を傾げている。
そんな彼を見て、斎藤は小さな笑みを浮かべた。


斎藤「上手く表現できるものではないが……あんたの描く絵には、魂がある。絵であろうと生き方であろうと、魂が込められたものは他者を惹きつける。そんなことができるあんたには……絵の道にこそ『天分』があるのではないかと思ってな」


斎藤の言葉には、嘘偽りは無い。
井吹を見据える蒼い瞳も真っ直ぐで、美しい。
突然「絵の才能がある」と言われた井吹は、戸惑いと照れ臭さのせいか、慌てたように話を逸らした。


井吹「…あ、あんたの天分は何なんだ?」


その言葉に、斎藤は僅かに微笑みながら左手を刀の柄に添えた。
言わずとも、井吹と名前にはしっかりと伝わった。
斎藤の剣の腕前を天分と言わずして、なんと言うのだろう。


井吹「……なあ、斎藤。あんたいつ頃、自分の道が剣にあるって気づいたんだ?」


斎藤は、暫く沈黙していた。
彼が口を開いたのは、沈黙を疑問に思った井吹と名前が顔を見合せた時であった。


斎藤「きっと、この剣以外に何もなくなった時だろう」


まただ、と名前は斎藤の顔を静かに見上げる。
まるで一度剣を手放したかのような、その言い方。
斎藤の声色には、何処か暗さが含まれている。

手を伸ばせば、届きそうな距離だった。
姿を晦ましていた時、彼の身に一体何があったのか。
その答えは今、ほんの数歩先にあるのだろう。

しかし、決して触れる事が許されぬような雰囲気。
名前は、人の心を傷付けてしまう事を何よりも恐れている。
そんな彼女が、それを聞けるはずもなかった。
手を伸ばすこともなく、名前は静かに目を伏せる。

井吹も斎藤のただならぬ雰囲気を感じ取っているのか何も聞けないようで、その場には沈黙が流れていた。


斎藤「……井吹。あんたの天分は剣にはないからな。この浪士組に居ても幸せにはなれぬ」


斎藤はそれだけ言い残すと、先に歩いて行ってしまった。
名前は何も言わず、井吹と共にその背中を追うのであった……。

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