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名前「こんにちは」
梅「いらっしゃいま……あら、名前さん!」
菱屋の暖簾を潜れば、以前も見た美しい顔がある。
名前が来たとわかるなり、お梅はパッと表情を明るくした。
名前「お使いの帰りで通りかかったので、ちょっと寄ってみたんです。お梅さん、元気かなって思って」
梅「まあまあ、わざわざおおきに。さ、どうぞ上がって。お茶を用意してきますから」
名前「あ、いえ!大丈夫ですよ!人を待たせてあるので長居はできないんです、すみません」
梅「そないどすか…?」
店の奥に入って行こうとしたお梅を、名前は慌てて引き止めた。
店には悪い気もしたが、名前としては本当にお梅の顔を見る為に立ち寄っただけなのである。
梅「あら、酷い隈……お忙しくて?」
名前「えっ?あー……そうなんですよ、ちょっと寝ている暇が無くて」
梅「まあ、大変。うちの顔を見に寄ってくれはったのは嬉しおすけど、名前さんのお体の方が大事どす。若いからと無理しはってはあきまへん」
名前「あはは、そうですよね。気をつけます」
ほんの少し眉を顰めたお梅だが、その表情もまるで絵に描いたように美しい。
その手前、徹夜三日目であるなどとは言えない名前であった。
名前「八月になれば色々終わって少しは落ち着く予定なんです。ですからその時に改めて遊びに来ますね」
梅「ええ、お待ちしておりますよ」
名前「ありがとうございます!暑いですからお体にお気をつけて」
梅「おおきに、名前さんも」
名前「はい!じゃあまた」
お梅と何度か言葉を交わし、名前は店を出た。
店の前で立っているのは井吹である。
酒を買いに行くというので、土方からお使いを頼まれていた名前も一緒に行くことにしたのだ。
井吹「終わったのか?」
名前「うん!ごめんね、付き合わせちゃって。ありがとう」
井吹「いや、構わないが……最近よくあの人、芹沢さんを訪ねてきてるよな」
歩きながら、チラリと店を振り返る井吹。
お梅がここ数日間毎日前川邸を訪ねてきていることには、井吹も気づいていたらしい。
名前「なんかねー、芹沢さんが隊服の仕立て代を払ってくれないんだって」
井吹「はあ!?まだ払ってなかったのか!?」
名前「私もびっくりしてさ、すぐに兄様と土方さんに伝えたんだけど…。兄様達からも芹沢さんに催促してくれてるみたいなんだけど、全然応じてくれる気配がないらしくて」
井吹「……本当、あの人は何考えてんだろうな」
井吹も流石に驚きを通り越して呆れている様子である。
目を白黒させた後、大きな溜息を吐いていた。
名前「やっぱり私も芹沢さんに直接言いに行こうかなぁ。お梅さんに申し訳なくて」
井吹「そもそも取り合ってもらえないんじゃないか…?」
名前「それなら話を聞いてもらえるまで居座るよ」
井吹「やめとけ、殴られるぞ。俺の目の前であんたが殴られでもしたら、それこそ斎藤達に合わせる顔が無いよ」
名前「うーん、殴られるのは嫌だけど……でも、いつまでもこのままってわけにも……」
井吹「それはそうかもしれないが……」
結論など出るはずもなく、結局二人は押し黙ってしまった。
芹沢を動かせるような人物など、浪士組にはいないのである。
名前「……とりあえず、兄様の方から催促してもらう方がよっぽど建設的かもね」
井吹「ああ、そうだろうな」
名前「お給金が支給されたら、お詫びにお菓子でも持っていくかなぁ…」
井吹「……色々大変なんだな、副長補佐って」
名前「これは私が勝手にやってるだけだよ、お梅さんは数少ない女性の知り合いだし」
井吹「へえ、随分あの人に肩入れしてるんだな」
井吹の言葉に、名前は苦笑いを浮かべた。
名前「肩入れっていうか……なんだろうな、お梅さんと話してると心が温かくなるんだよね」
井吹「そうなのか?」
名前「うん。きっとお梅さん自身が心優しくて凄く素敵な人だからだと思う。それに……何だか、お母様と話してるような気分になるんだよね」
井吹「へえ……」
お梅は不思議な女性だ。
取引先の相手であったとはいえ、出会ったばかりの名前の身を案じてくれている。
名前の体調を心配したり気遣ったりする発言も多く、名前からすればまるで母親のような温かさのある人物なのであった。
名前は自分の本当の親を知らない。
近藤周斎に引き取られてからも、母親はいなかった。
だから、母親とはお梅のような人物なのだろうかと想像してしまうのだ。
井吹は、よく分からないと言いたげな表情を浮かべている。
それを見た名前はくすりと笑った。
名前「とりあえず、急いで帰らなきゃね。土方さんの拳骨が落ちちゃう」
井吹「俺も芹沢さんに殴られそうだ」
名前「お互い大変だねぇ」
日が暮れ始めている。
今夜も羅刹の捜索だろう。
それでも、束の間の穏やかなひと時を名前は過ごしていた。
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