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文久三年 六月二十五日。
あれから斎藤による井吹の稽古は続いている。
斎藤が毎日井吹を稽古に誘いに来るため、井吹も参加したりしなかったりする日が続いているらしい。
毎日ではないとしても、あれほど武士を嫌っていた井吹が斎藤から剣術を教わり続けているのは意外なものである。
その日も斎藤は、井吹の稽古を終えて戻って来たところであった。
午後からは市中の巡察があるため、今日は午前だけの稽古である。
壬生寺から戻ってくると、八木邸の玄関には名前がいた。
どうやら名前は、斎藤が戻ってくるのを待っていたらしい。
場所を変えたいと言うので、斎藤は名前を連れてもう一度壬生寺へ戻ることとなった。
しかし斎藤が用件を聞けば、名前は驚くべき事を口にした。
名前「……相手がなるべく苦しまない斬り方って、ある?」
斎藤は、己の耳を疑った。
出来ることならばなるべく人を斬りたくないと考えているはずの名前が、人を斬る前提の話をしている。
斎藤が知っている今までの名前ならば、絶対に口にしないような発言だった。
斎藤「……それは、介錯の方法を学びたいという事で合っているか?」
名前「……うん」
斎藤「……何故そのような事を聞く?」
彼女は一体、何を考えているのか。
斎藤にもそれは推測できず、つい警戒したような口調になってしまう。
名前は、儚げに目を伏せた。
名前「……羅刹の事なの」
斎藤「羅刹の事……?」
名前「この間、私が取り逃しちゃった羅刹がいたでしょう?それで平助と一緒に見つけて戦ったんだけど……その時に、下手な斬り方をしちゃって。あの人を余計に苦しめるような斬り方をしてしまったの」
斎藤「……」
名前「浪士組の名を語って悪事を働いた罰とはいえ、羅刹になってからの苦しみは相当なものだと思うの。それこそ死んだ方がマシってものなんだと思う。だから……せめて、楽に逝かせてあげたくて。羅刹に限らず、今後斬らなきゃいけない人も。だから、一君が良ければ私に教えてほしい」
そう語る名前の声は、微かに震えていた。
名前が学ぼうとしているのは、人を殺す為の術。
彼女自身もその自覚があるのだろう。
人を守る剣になるにはそれもまた必要な事だと、彼女は己の経験から気付いたのだ。
全ては、彼女が自身の信念を貫くため。
ならば誠意を持って応えるべきだと斎藤は考える。
斎藤「……あんたがそのつもりならば、夕餉の後壬生寺に来い」
名前「……うん。ありがとう」
名前は静かに頭を下げると、足早に壬生寺を去っていった。
そんな彼女の後ろ姿を、斎藤は黙って見つめる。
本来ならば、名前は女性としての幸せを掴める人間だった。
しかし、今となってはこうして斎藤に人を殺す術を乞うようになった。
浪士組として生きる彼女の成長と捉えるべきなのかもしれない。
だが、斎藤にはそんな前向きな捉え方など出来なかった。
斎藤「……」
微かに震えていた、名前の声。
名前は己の信念を貫くために、その信念に苦しめられるのかもしれない。
斎藤には、そんな風に思えてならなかったのである。
******
八木邸へ戻った名前は、山南から頼まれ事をされる。
羅刹に関する資料を新見に返却してきてほしいとのことで、名前はその足で前川邸へと向かった。
だが平間に尋ねれば、芹沢と新見はつい先程島原へ行ったという。
昼間からいいご身分だ、と呆れた名前だが、いないものは仕方がない。
新見に渡してほしいと平間に資料を預け、名前は前川邸を出る。
しかし、門を出れば見知らぬ女性に鉢合わせた。
?「……」
名前「……あの、いかがなされましたか」
物憂げに門を見上げていたその女性。
青緑色の美しい着物に、ふっくらとした薄紅色の唇が印象的な、端正な顔立ちの女性であった。
声をかけると、柔らかな視線が名前に向けられる。
その女性は名前の身なりを見て一瞬困惑したような表情を浮かべたが、すぐに笑みを浮かべた。
梅「浪士組の方ですやろか」
名前「はい、そうですが」
梅「そうどしたか。お忙しい所、申し訳あらしまへん。私、呉服商の菱屋から参りました、梅と申します」
名前「は、はい」
何故呉服商の者が此処に。
名前は困惑した表情を浮かべたが、梅は柔らかな笑みを浮かべたまま話を続けた。
梅「芹沢様にお話があるのですが、取り次いでいただけますか」
名前「あ…申し訳ございません。芹沢さんでしたら、ただ今外出中でして」
梅「あら…そうどしたか」
梅は困ったように眉を下げる。
梅「……実は先日、浪士組の皆様の隊服をうちで誂えさせていただいたのですけれど、仕立て代を払てくれはらへんので困っとるんどす」
名前「……えっ!?」
名前は驚愕のあまり、思わず声を上げていた。
確かあの隊服を受け取ったのは四月頃。
もうふた月も前の話である。
名前「それは、大変申し訳ございませんでした。芹沢さんは恐らくまだ戻らないかと思いますが…いかがなさいますか」
梅「……そうどすか。ほな、また明日お窺いします」
名前「申し訳ございません。私の方から必ず伝えておきますので」
梅「おおきにありがとうございます。よろしゅうお頼もうします」
名前が深く頭を下げれば、梅も同じように静かに頭を下げた。
そして頭を上げてから、梅は名前の姿を物珍しそうに見つめた。
梅「……浪士組には、女子はんもいてはるんどすなぁ」
名前「えっ!?……は、はい。私だけですけれども」
梅「まあ」
やはり名前は男の格好をしていても女と見抜かれてしまうらしい。
柔らかな京言葉で紡がれた言葉に驚きながらも名前が頷けば、梅は目を少し見開いた。
梅「ほんなら色々と大変ですやろ?」
名前「いえ、小さい頃から男所帯で育ちましたので……。今は特に何とも」
梅「あら、そないどすか…?」
梅は心配そうな表情で少しの間名前の顔を見つめると、ふわりと優しげな笑みを浮かべる。
梅「あんさん、反物はお好きどすか?」
名前「反物…ですか。すみません、お恥ずかしながら昔からうちは貧しくてあまり縁が無くて……。でも、凄く憧れていました」
反物など、名前にとっては別世界のようなもの。
商売で顔見知りの呉服屋に行くことが何度かあり、他の客があれこれ見定めていた反物を度々目にしていた。
どれも本当に美しいものばかりで、思わず見入ってしまったこともあったものだ。
名前は、手に入らなくとも美しいものをよく好む。
中でも、目を奪われた反物は。
名前「……昔見た反物で、桜柄のものがあったんです。それが本当に綺麗で、ずっと忘れられなくて」
それを告げれば、梅は嬉しそうに微笑んだ。
梅「そうどしたか。もし良ければ、うちに遊びにいらして?」
名前「えっ、でも…私、お金持ってなくて」
梅「あら、構いませんよ。少しの気分転換にでもなれば」
名前「わあ、ありがとうございます!今度必ず窺います!私、近藤名前と申します」
梅「名前さん…。ふふ、お待ちしております」
思わぬ楽しみができ、名前は目を輝かせた。
ここ最近は気を張ってばかりだったため、久しぶりに息抜きができそうだ。
小さな約束をした後、梅は再び頭を下げて帰っていく。
その後ろ姿が見えなくなるまで、名前は穏やかな気持ちで見送っていた。
……さあ、自分もやるべき事をやらねば。
名前はぎゅっと拳を握りしめると、静かに八木邸へと戻って行った。
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