銀桜録 黎明録篇 | ナノ


2

その日の夜。

名前は山南から新見への言伝と資料の返却を頼まれて、前川邸を訪れていた。
しかし、部屋を訪ねても新見の姿は無い。
何処に行ったのかと探し回っていると、運良く井吹と遭遇した。


名前「あ、龍之介!ちょうどよかった!」

井吹「っ!ああ、あんたか。何でこっちに居るんだ?」

名前「山南さんから新見さんに言伝を頼まれて。……それより、そんな所で何してるの?」


井吹は何故か、蔵の方をこっそりと窺うようにしていたのである。
それを尋ねれば、井吹は不安そうな表情を浮かべた。


井吹「……実は、さっき新見さんが一人で蔵に入っていったんだ」

名前「……新見さんが、一人で?」

井吹「ああ。それも何だか…こそこそしてるように見えてさ…」


……まさかとは思うが。
嫌な予感が名前の頭を過ぎった。


名前「……それ、いつのこと?」

井吹「つい今しがただよ。新見さんが入っていってから少ししてあんたが来たんだ」


どうも不穏な予感が拭えない。
名前は、スッと静かに蔵を見据えた。


井吹「……ちょ、ちょっと待て。まさかあんた一人で行く気か!?」

名前「勿論。山南さんは何も実験の事は言ってなかったし、今も部屋にいるはず。山南さんの立ち会い無しで実験をしようとしてるなら、勝手にやってるって事だよ。それなら止めなきゃ」

井吹「無茶だ、あんた一人じゃ危険すぎる!」

名前「分かってる。でも時間稼ぎくらいなら私もできる。だから井吹は今のうちに土方さんに、」


と、そこまで言いかけた時であった。


「ぐぉおあああああああーーッ!!!」


耳をつんざくような悲鳴が蔵から聞こえた。
かと思うと、

─── バギィッ!!!

鈍い音がして、蔵の扉が吹き飛ばされた。
蔵から勢いよく飛び出してきたのは、赤い目を光らせた ─── 羅刹である。


名前「龍之介、土方さんを呼んで!!」

井吹「っ!あんたを置いて行けるわけないだろ!?」

名前「お願い、早く!!私一人じゃ長くは持たない!!」


名前は刀を抜くと、井吹を無理やり腕で後ろへ押しやった。
躊躇いを見せた井吹だが、名前の気迫に圧倒されたのか、焦ったように八木邸へと走って行った。

まるで蜘蛛のように地面に這いつくばっている羅刹の赤い瞳が、名前を捉える。
ギラギラと赤く輝くその瞳に、名前は息を飲んだ。


名前「……っ、」


恐らく屋敷の門はまだ閉じられていないはず。
下手をすれば羅刹が町へ逃げ出してもおかしくはない状況だ。

自分一人でどこまでやれるか。
完全に理性を失った羅刹は、心苦しいが殺すしかない。
仕留められれば一番良いが、恐らく名前一人では難しいだろう。
何とか土方達が来るまで時間を稼がなければならない。

お互いに相手の隙を窺って一歩たりとも動かず、睨み合いが続いた。
そして、


「ぐわあああああああっ!!!」

名前「くっ!!」


まるで獣のような動きをしながら、羅刹が名前へと飛びかかってくる。

真っ向勝負になった以上、何とか一発で仕留めなければ。
一寸の狂いも許されない緊迫感に身を沈め、名前は突きの構えをとる。

─── ドスッ……

何とか相手を見切って間合いに踏み込んだ名前が先手を取り、刀を心臓目掛けて叩きつけた。
手には前と同じ、肉を貫くあの感触。

しかし。


「ぐぬあああああああっ!!!」

名前「っ!?なっ……!!」


刀は心臓を貫いたように見えた。
だが僅かに右に逸れており、狙いが外れたらしい。
しまった、と顔を歪めた時には既に遅かった。


名前「がはっ……!!!」


名前が刀を引き抜く、その隙を突かれた。
羅刹の蹴りが名前の腹に入ったのである。
今までに感じたことの無いほどの激痛が腹に走り、名前の体は勢いよく吹っ飛ばされた。

しかも運悪く名前の体が飛んで行った先には井戸があり、名前は頭や体を強く打ちつけてしまう。


名前「っ、う……」


ぐらぐらと目眩がした。
体中を激痛が走り抜けていて、何処が痛いのか分からない。
意識を保とうと刀を強く握り締めて前を見据えれば、ゆらりゆらりと近づいてくる羅刹。
最後の力を振り絞り、刀を投げつけようとした時であった。


土方「 ─── 名前っ!!!」


土方の声がした。
それと同時に何人かの足音が聞こえてくる。
その瞬間に名前の揺れる視界いっぱいに入ったのは、闇夜に溶けるような藍色。


斎藤「名前!聞こえるか、しっかりしろ!」

名前「……うっ、」

斎藤「名前!!」


三寸程の距離なのに、視界が揺れて斎藤の顔が分からなかった。
蒼がぼんやりとして見える。
これはかなりまずい、と名前は歯を食いしばる。
口の中で血の味がした。


沖田「名前っ!!!」

藤堂「まずい、逃げられた!!」

土方「くそっ…原田、新八、平助!!奴を追え!!総司、山南さん!」

斎藤「彼女は俺が、」

土方「ああ!」


様々な声が入り乱れている。
しかし、名前には誰の声なのか認識する程の力は残っていなかった。

ぷつん、と。
糸が切れたように、名前は意識を失ったのである。

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