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宿へ戻る途中、一人の力士が道を塞ぐように反対側から歩いてきた。
嫌な予感がした名前が隣の山南を見上げれば、彼も同じだったらしい。
咄嗟に気を利かせた山南が「別の道を行きませんか」と芹沢に提案したが、それにあの男が従うはずがない。
芹沢「端へ寄れ」
「寄れとはなんだ」
何故こうも芹沢が絡むと、事は悪い方向にばかり進むのか。
力士の傲然とした態度に芹沢が腹を立てないはずもなく。
山南「お止め下さい、芹沢さん!」
名前「芹沢さんっ!!」
山南と名前が芹沢を止めるべく大声を上げるが、時は既に遅かった。
怒った芹沢は即座に刀を抜くと、その力士を斬り捨てたのである。
どさりと力士の巨体が倒れた。
しかし、事態はこれだけでは終わらなかった。
すぐ先を行った所でまたしても力士が道を塞いでおり、先程の力士と同じような口を利いたのである。
先程の出来事でいきり立っていた芹沢は、今度は力士を取り押さえると馬乗りになって刀を突きつけた。
芹沢「先程も一人斬り捨てた。武士に向かって同じ無礼を働くとは言語道断。特別に貴様は許してやるから貴様の仲間達へ伝えろ、武士に無礼な真似はするなと」
その力士は芹沢の言葉に震え上がると、一目散に逃げて行った。
永倉「……名前、頼む。もう少しだから抑えてくれ」
名前「……っ、」
名前の肩が怒りで震えている事に気づいたらしい永倉が、彼女へこっそりと耳打ちをした。
今芹沢に逆らったところでどうすることもできない、むしろ粗暴な行いを悪化させるだけだろう。
名前が握り締めた拳から力を抜けば、永倉が名前の頭を軽く撫でた。
時に冷静に事を見ている永倉が今この場に居てくれたのは、名前にとっては幸いだったのである。
******
宿へついてから、斎藤は腹痛が治まらないと言って隣室に入った。
斎藤を介抱するという理由で山崎もその部屋にいる。
恐らく名前が来るのを待っているのだろう。
今すぐにでも向かいたいところだが、運悪く芹沢は名前に酌を続けるように命じた。
勿論先程の出来事の怒りが消えたわけではないが逆らえるはずもなく、黙って芹沢に酌をする。
今か今かと、抜け出す機会を窺いながら。
すると、山崎がやってきた。
芹沢「斎藤の体調はまだ良くならんのか」
山崎「それが……先程よりも痛みが増してきたとのことで。大病かも知れませんから、これから知り合いの医者に診せに行こうと思うのですが」
芹沢は不機嫌そうに眉を顰めた。
芹沢「わざわざこちらから出向く必要などなかろう。医者くらいここに呼びつければいい」
山崎「そういう訳には……ここでは設備もありませんから細かく診きれません」
暫くの間二人は押し問答をしていたが、山崎が全く譲らない姿勢を見せたせいか、やがて芹沢の方が折れた。
芹沢「…ならば行くがいい。しかしそんなに重病なら、山崎一人に任せるわけにもいくまい。…妹、お前も同行しろ」
「えっ」と思わず名前が声を上げれば、芹沢がギロッと睨みつける。
芹沢「先程から何度も襖の方を見ていただろう。全く忙しない女だ、ろくに酌もできぬとは。そんなに奴が心配ならば行け」
名前「っ!ありがとうございます!」
芹沢「ふん。…おい、犬!貴様が代わりに酌をしろ!」
怒鳴るように芹沢が井吹を呼びつけるのを聞きながら、名前と山崎は急いでその場を去った。
名前「……ばれてますよね」
山崎「恐らく…」
部屋を出て歩き始めてから、名前は山崎と顔を見合わせて大きな溜息を零した。
過程はどうであれ結果的には抜け出せたのだから、一先ず先には進める。
名前「そういえば、私の自己紹介がまだでしたよね。近藤勇の妹の近藤名前です、これからよろしくお願いしますね」
山崎「山崎烝です。土方副長から貴方の事は伺っています、こちらこそよろしくお願いします」
初めて会話をするにしては、先程はなかなか息が合っていたと名前は思う。
名前「すみません、私の方から抜け出せなくて。あの人を騙す技量は私には無かったです」
山崎「いえ、芹沢局長を欺ける人などおりませんよ。相手が悪すぎます」
名前「すみません。粘ってくださってありがとうございました、助かりました。ところで、一君は何処に?」
山崎「先に外で待っているそうです」
名前「そうでしたか、ありがとうございます」
名前と山崎は足早に宿屋の玄関へと向かう。
名前「そうそう、一君といえば……さっきの舟ではちょっとヒヤッとしましたよね、まさか芹沢さん相手に無表情で体調不良を訴えるなんて。私も演技に関しては人のこと言えないですけど」
斎藤「俺に用があるならば、面と向かって言ってもらいたいものだな」
名前「ぎゃっ、一君!びっくりした!」
いつの間にか宿の外に出ていたらしく、しかもそこには斎藤が立っていた。
名前の話を聞いていた山崎は苦笑いを浮かべている。
名前「違うよ、さっきの一君は名演技だったねって山崎さんと話してたの」
斎藤「今更嘘をつくな」
名前「ばれたか」
ちぇ、と名前が口を尖らせれば、斎藤は山崎の案内に従ってさっさと歩き始めた。
名前も慌ててそのあとを追う。
斎藤「…言っただろう、俺は元来顔には出ぬ性分だ」
名前「えっ、そんな事なくない?結構分かりやすいと思うけど」
斎藤「…それは、あんたが特殊なだけだ」
名前「えっ、私って特殊なの!?」
斎藤「相当な」
ガンッと衝撃を受けたような顔になる名前。
そんな話をしている間に目的の商家に着いたらしい。
山崎「まずは此処です。では、よろしくお願いします」
斎藤「ああ」
名前「よーし!頑張ろうね、一君!」
斎藤「ああ、そうだな」
斎藤は普段通り静かに、名前は気合いを入れた様子で商家に入っていく。
斎藤が冷静に丁寧に事情を説明し、名前がその補足をしながら店の主人と心の距離を縮める作戦である。
斎藤の交渉術と丁寧な対応、そして名前の話術と明るい雰囲気は、完璧に互いを補う見事な組み合わせであった。
その後も何件かやり取りが続き、名前と斎藤はひたすら店を出入りした…。
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