銀桜録 黎明録篇 | ナノ


1

文久三年 六月三日。

浪士捕縛の実績を上げて尚且つ資金調達を行う為、浪士組の隊士は大坂へ下った。
それが一日の夜の事である。
大坂行きとなったのは芹沢に近藤、山南、沖田、斎藤、永倉、井上、島田、山崎、名前。
そして芹沢の付き添いで井吹も同行する事になった。

そして今朝早く、不逞浪士が潜伏しているという宿所へ向かった。
腕に覚えのある浪士組の剣客十人には流石に太刀打ち出来なかったようで、浪士の高沢民部と柴田玄番を難なく捕縛し奉行所へ連行した。


永倉「しかし、随分と呆気なく終わったもんだな」


宿に戻る道中、永倉はなんだか物足りなさげである。


名前「怪我人が出なくて何よりじゃない」

永倉「それはそうだけどよ。なんつうか、物足りねえっつうか……」

名前「もう、不逞浪士との斬り合いを憂さ晴らしにしないでよ。怖いなぁ」

永倉「すまんすまん」


苦笑いしながら永倉は謝った。
名前の言葉は図星だったのだろう。

しかし……。
ピンピンとしていて会話をしているのは永倉と名前だけであった。
何故なら、


沖田「……暑い」

名前「…わっ、総ちゃん大丈夫!?」


歩きながら、ぐでっと沖田が名前に寄りかかってきた。
そんな彼は珍しく汗だくである。


永倉「確かに京にしろ大坂にしろ、江戸とは比べ物にならねえ暑さだな。夕方なのに何だってこんなに暑いんだ」

山南「この辺は盆地ですからね、仕方ないのですよ」

永倉「ああ、そうだったか。しかし、こうも夜まで暑いと眠るに眠れねえよな」

名前「……」


昨日は隣の部屋まで聞こえるような鼾をかいていたくせに何を、と言いたくなった名前だったがそこは黙っておいた。

しかし、やはり江戸と違ってこの暑さとは耐え難い。
それは芹沢も同じらしく、いつの間にか舟を借りる手配を井吹にさせていた。
どうやら夕涼みを行うらしい。

近藤と井上は人に会う予定があるとかでその場を離れ、残された者達は芹沢からの誘いを断れるはずも無く、舟に乗ることとなった。

正直名前としては今すぐにでも宿に戻りたい気分であった。
夕涼みといっても恐らく宴になるはずだ。
芹沢に酒が入るとろくな事がないのである。
しかし名前には土方に頼まれた仕事がある。
それ故に、斎藤と山崎とは離れて行動する訳にはいかなかった。

用意された舟に乗れば、豪華な料理や酒が並べられている。
とりあえず斎藤から離れないようにしておこうと思った名前は彼の隣に腰掛けた。
恐らく、その時・・・が来たら斎藤が何かしらの合図をしてくれるはずだ。

何もしないで座っていても怪しいので、名前はとりあえず豪華な料理を少しずつ口にする。
しかし、その時であった。


芹沢「犬、貴様はいらん」


いつものように芹沢に酌をしようとした井吹を、芹沢は振り払った。
そしてその鋭い眼光は井吹から ─── 名前へ。


芹沢「…妹。今日は貴様が酌をしろ」


名前に白羽の矢が立った。
芹沢は、不敵な笑みを浮かべていた。
名前の隣に座っていた沖田が今にも刀を抜きそうな勢いで芹沢を睨みつけたが、そんな沖田を名前は静かに制す。


名前「承知致しました」


名前は今、自分がどんな表情を浮かべているか分からなかった。


******


とくとく、と芹沢の盃に酒を注ぐのはもう何度目か。
その場は夕涼みとは思えぬ程静まり返っている。
というのも、芹沢が名前に何かすればすぐに止めに入れるよう、食事をしながらも他の者は身構えているのである。

加えて名前は、芹沢と直接話した事はない。
初めて出会ったあの日、芹沢は名前を馬鹿にしたような目で見た。
自分は芹沢から煙たがられていると思い、触らぬ神に祟りなしという事でなるべく関わらないようにしていたのである。
それ故、これ程近い距離になっても名前から口を開く事は無かった。

この二つの原因により、舟の中は恐ろしい程に静まり返っていたのである。
そして意外にも、その沈黙を破ったのは芹沢の方であった。


芹沢「……妹。俺が憎いか」


唐突な問いだった。
ここで返答を誤れば、恐らく芹沢の機嫌を損ねる。
加えてこの男には嘘というものが通用しない。
この男の瞳は、いつも物事の真理を見極める。
ならば、何と答えるべきか。


名前「……わかりません」

芹沢「……ほう?」


酒を飲む芹沢の手が止まった。
名前に話を続けるよう、促しているのだ。


名前「…正直に申し上げますと、私は貴方の行いをどうしても好きにはなれません。いくら武士が畏怖される存在でなければならないとしても、何の罪も無い人を傷つけるやり方は苦手です」

芹沢「…ほう」

名前「…ですが、」


名前は静かに徳利を置くと、芹沢に向き直って正座をした。


名前「私は覚悟を決めて江戸から参りました。兄達の手足となり、己が成すべき事を成す為に此処に居ます。ですが…貴方を見ていると、自分の覚悟がちっぽけなものに思えてくるのです。貴方の覚悟の大きさは、私なんぞでは計り知れません」


武家の生まれでもなく、男でもないからこそ名前には分かる。
いかに芹沢の存在が大きくて、その背中が遠くにあるのかを。
芹沢は、名前とはかけ離れた存在だ。


名前「口と心と行いの三つが揃って真の誠となります。ですが私は、貴方のようにはなれません。浪士組の為に成すべき事を貫く貴方は、私にとっては絶対に追いつくことの出来ない…『誠』の、武士なのです。ですから私は…この二つの思いがあり、貴方をどう思っているのか自分でも分からないのです」


芹沢の鋭い眼光が名前を射抜く。
名前は目を逸らすこと無く、芹沢の瞳をじっと見つめ返した。
睨んでいるといっても過言ではないほどに。

暫く続いた睨み合いだが、先に口角を緩めたのは芹沢であった。


芹沢「…成程、面白い。肝の据わった女だ、あの近藤君を兄に持つだけはある」


芹沢は、名前の言葉に嘘はない事を見抜いたようだ。
『あの近藤君』というのが良い意味なのか悪い意味なのか、名前には分からなかったが。


芹沢「以前からお前と話をしてみたかった。髪を切ってまで浪士組に参加する、覚悟ある女とな」


何故その話を知っているのか。
一瞬体が硬直した名前だったが、その言葉にはそれ以上の反応は見せずに酒を注ぐ。


芹沢「和歌を好むと聞いたが」

名前「……はい。ですが歌人の歌が好きなだけですので、私自身は詠めません」


彼は一体何処から名前の情報を仕入れているのだ。
歌が好きな事など、近藤と山南、そして斎藤以外には話していないはずだが。


芹沢「 ─── 雪霜に色よく花のさきかけて散りても後に匂う梅の香」


突然詠まれた和歌に、名前は目を瞬かせた。


芹沢「…これを、お前はどう詠む」

名前「…申し訳ないのですが、存じ上げない歌です。どなたのものでしょう?」

芹沢「そんな事はどうでもいい。さっさと答えろ」


芹沢に、試されている。
名前がどのような人間なのか、芹沢は見極めようとしているのだ。
しかし、なかなかの難題を押し付けられたものだ。
名前は言われるがまま、必死に頭を回転させた。

『雪霜に色よく花のさきかけて散りても後に匂う梅の香』
梅は雪や霜にも負けずに鮮やかな花を咲かせ、雪や霜の白に彩を添える。
その為に早く散っても、匂いは残るだろう。

『さきかけて』には、『咲きかけて』と『魁けて』が掛けられているのだろうか。


芹沢「…まあ、強いて言うならば…死罪を言い渡された者が牢獄の中で小指を噛み切り、その血で残した歌だ」


付け加えられた言葉に、名前ははたと動きを止める。
何故かは分からないが、この歌は芹沢が詠んだものだと察してしまったのである。
そうなると、話は変わってくる。


名前「……凄く、綺麗な歌だと思います。梅の花は春一番、寒さに負けず花を咲かす。そして早く散っても香りが残っている…。情景が浮かんでくる、綺麗な冬の歌に思えます」

芹沢「……ふん」

名前「……ですが、」


これは、ただ冬の朝を詠んだものではない。
そこにはきっと、隠された意味がある。
何故なら、これを詠んだのは芹沢だから。
牢獄の中で死を待つ芹沢が、詠んだのならば。


名前「あくまでもそれは表面的なもの。この梅は、本当はこの歌を詠んだ本人を表しているのではないかと私は思います。もしそうならば…『自分は志士の魁として咲き、散っていく。だがその存在と志は、鮮烈な爪痕を残すだろう。散った後にも香る梅のように』」


芹沢が、ピクリと眉を動かした。
それも束の間、芹沢は口角を上げる。


芹沢「…成程。多少は頭が回るようだな」

名前「…お褒めに預かり光栄です」


フッと鼻で笑った芹沢だが、何やらいつもよりも機嫌が良い。
どうやら名前の返答をお気に召したらしい。

もしここで返答を誤っていれば確実に芹沢は不機嫌になっていただろう。
そうなれば何が起きていたか分からない。
その緊張感から解放されたのか、息を飲んで芹沢と名前の会話を聞いていた他の者達の間には、ほっとしたような空気が流れていた。

しかし芹沢は、お前も飲めと言うような表情で名前に盃を押し付けた。
名前としては、この後やらなければならない事もあるため断りたいところである。
だが芹沢が注いだ酒を断れば機嫌を損ねかねない。

自分が酒をどの程度飲める体質なのか全くわからないが、名前は思い切って盃を受け取る。
猪口の中で波打つ液体と暫し睨み合いをしていれば、「兄妹揃って飲めんのか?いいから飲んでみろ」と小馬鹿にしたような口調で芹沢が鼻で笑った。

……しかし。
恐る恐る猪口を口に付け、液体が一瞬舌先に触れそうになった、その時であった。


斎藤「芹沢局長。お取り込み中失礼致します」


いつの間にか、此方へやって来ていたのは斎藤である。
すると斎藤は、何やら芹沢に耳打ちをした。


芹沢「……腹痛だと?顔色は悪くないようだが」


斎藤が体調不良を訴えたようだ。
しかし芹沢の顔は怪訝そうである。


斎藤「…体調が悪くとも顔に出ぬ性分のゆえ、そう見えるだけのことでしょう」

芹沢「…どうも怪しいな。仮病ではないのか」

斎藤「いえ、そのようなことは……陸に降りてしばらく休めば治ると思います。局長はこのまま、酒宴をお続けください」


…ああ、もしや。
これが合図か、と名前はようやく察した。
だが、芹沢相手にこれ程まで無表情で体調不良を訴えるとは。
様子を窺いながら名前は内心冷や汗をかいていた。

とりあえず名前も斎藤について行くために、何か口添えをしようと口を開きかけた時。


芹沢「…いや、いい。夕涼みは止めだ、皆で宿に戻る。おい、犬!船頭に告げて来い」


…どうやら、自分達だけ抜け出すのは失敗に終わったらしい。
思わぬ形で夕涼みは中止となったのである。

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