銀桜録 黎明録篇 | ナノ


1

綱道「 ─── これは、幕府が異国との交易で手に入れた"変若水"と呼ばれる薬です」


静まり返る広間の中で話し始めたのは、蘭方医の雪村綱道である。
彼の手にはびいどろで出来た小瓶が握られており、その中には怪しげな赤い液体が入っている。

集められた名前達は、固唾を飲んでその話に耳を傾けていた。


綱道「これを口にすると戦闘能力が著しく増強し、同時に驚くべき治癒能力を手にします」


そんな物が、この世に存在するのか。
脳裏に蘇るのは、先程の狂った男。
通常ならば有り得ないほどの身体能力と、治癒能力を持っていた。
あれが、薬によって作られたものだというのか。

何とも信じ難い話だが、現にその超人的な力を持ったあの男を名前達は目撃しているのだ。


綱道「……しかしその一方で理性を失い、正気でいられなくなります」

芹沢「……そういい事尽くめでもないということだな」

綱道「はい。しかもその力を発揮できるのは、闇の中でのみ。日の光の下ではまともに動くことすら出来ません。傷は癒えますが、首を刎ねられたり心臓を貫かれれば死にます。そして羅刹は人の生き血を好むのです。薬を飲んで力を発揮した者を、我々は "羅刹" と呼んでいます」

永倉「あの姿……羅刹に違えねえや」


話を聞いた名前達は顔を顰めていた。
脅威的な戦闘能力と治癒能力、夜にしか動けず人の血を好む……。
人ではない、それは最早化け物だ。


原田「さっきのあの化け物…見覚えあると思ったんだけどよ。あいつ…家里だよな?」


原田の言葉に、土方は「そうだ」と静かに頷いた。


藤堂「家里って……確か、一緒に江戸から来たやつじゃないか!?」

永倉「仲間をそんなわけのわからねえ薬の実験に使ったってことか!?」


怒りを抑えきれない様子で責め立てる永倉に、近藤は悲痛な表情を浮かべる。
一方で、大して気にした素振りも見せないのは新見と芹沢である。


新見「奴は隊規違反で腹を詰めさせることになっていました。処罰と同じですよ」

永倉「だからって!」

芹沢「やり方が切腹ではなかった。それだけの事だ」


芹沢の言葉に、永倉は悔しそうに押し黙った。
芹沢達の判断が正しいとは思えないが、筋は通っているのである。


藤堂「土方さん…これからどうするつもりなんだ?その薬の実験…続けるつもりなのか?」


藤堂が不安そうに尋ねる。
土方は、新見や芹沢を睨みつけながら口を開いた。


土方「……俺は反対だ。あんなもんが使い物になるとは到底思えねえ。さっきの家里は俺達の声すらまともに聞こえてねえみてえだった。あんな連中の手綱を取れるはずがねえだろ」

近藤「……私も、同意見です」


しかし土方と近藤の言葉に、新見は眉を顰める。


新見「確かに、実用に耐える品だとは思えませんが…それはあくまでも現時点での話でしょう。夕方、雪村殿と話した限りでは改良の余地は充分にあるということでした。試す価値はあるでしょう」

土方「そいつを試すには、また人間で実験しなきゃならねえだろうが!」

新見「っ、これは幕命ですよ!」

土方「理不尽な命令に従う必要はねえ」


激しい言い争いが続く。
しかし最後の土方の言葉を聞いた芹沢は、それを鼻で笑った。


芹沢「本来武士は、上からの命に従うことを美徳とするものだ。例えそれが理不尽な命令であってもな」

土方「芹沢さん、あんた……!!」

芹沢「ま、武家の生まれではない者に言っても理解出来んかもしれぬがな」

土方「なんだと……!?」


芹沢の挑発的な物言いに土方が青筋を浮かべて腰を上げるが、近藤が「トシ」と彼を制する。
すると、今まで事の成り行きを見守っていた山南が静かに口を開いた。


山南「…確かに今の我々の立場では、幕府の意向を無視することはできません」

土方「山南さん……」

山南「ですが改良の余地が残されているならば、二度とこのような事態を引き起こさない為にも、新見さんには局長職を辞して頂き、研究に専念してもらうのが良策と思いますが」

新見「……なっ、ば、馬鹿な!私が局長職を辞すなど…!」

芹沢「良かろう」

新見「せ、芹沢先生……!」


途中までは山南の言葉に頷いていた新見であったが、「辞職」という言葉に目を剥いた。
しかし芹沢がそれを了承すれば、新見は逆らうことはせずに大人しく引き下がる。
その表情は勿論、不服そうであったが。


山南「では、薬の研究は新見さんと綱道さん、それを私が手伝う形にしましょう」


山南は普段通りの穏やかな口調であったが、そこには彼の策略が顕著に出ている。
薬の研究に肯定的な新見を幹部から外して行動を戒めるのと同時に、新見が研究を勝手に進めないよう山南自らが監視をする策なのだろう。

変若水に関しては、やはり賛否両論。
その両方の意見を取り持つ折衷案と言ったところだろうか。


土方「…今夜はこれで解散だ。この事は他言無用、いいな?」


念を押すような土方の低い声に、その場にいる者達はしっかりと頷く。

しかし ───
狂い始めた歯車に、戸惑わない者は居なかった。


******


土方「…… 名前」


皆が広間から去って行く。
それに続くように名前が広間を出た所で、土方は彼女に声を掛けた。
自分よりも低い位置にある肩に手を置けば、名前は足を止めた。


土方「……大丈夫か」


土方は一瞬、何と声を掛けたものかと迷う。
しかし、あれこれと回りくどく探るのは得意ではないため、結局単刀直入な言い方になってしまった。

名前が…可愛がっていた妹分が、初めて人を斬った。
それも、あんな化け物を。
死体に突き刺さった名前の刀を見た土方は、少なからず動揺した。

初めて人を斬った時のあの感触…。
肉を貫くあの感触は、慣れるまではいつまでも体にまとわりつく。
大丈夫か、と。
正気でいられるか、と聞かずにはいられなかったのである。

…しかし。
土方の方を振り返った名前は、意外にも落ち着き払った表情であった。


名前「はい。正直、思っていたよりも平気です」

土方「…そうか」


少し驚いて土方がそう答えると、名前はふわりと微笑んだ。


名前「…誰かさんが、『お前は人を守る剣になれ』って言ってくれてるので。そのおかげで、だいぶ気は楽です」


土方に向けられたその笑みは穏やかで、それでいて儚い。


土方「…そうか。今日はしっかり休め」

名前「ありがとうございます。…土方さんも」


名前は土方に向かって丁寧に頭を下げると、しっかりとした足取りでその場から去って行った。

名前は心が強い。
今、正気を保っていられるのも彼女の元々の精神力もあるのだろう。
自分は仲間を守るために戦ったのだ、と。

だが……その一方で、脆い部分もある。
彼女は恐らく、"仲間" に弱い。
皆と離れるのが嫌で、倒れて生死の境を彷徨う程だ。
彼女の強さの理由であり、その一方で弱点でもあるのが "仲間" なのだ。

彼女の強さに甘えて、放置してしまうのは良くないだろう。
それではきっと、いつか彼女は壊れてしまう。
名前は、誰よりも心が優しいからこそ危ういのだ。

何としてでもそれだけは防がなければ。
彼女のように地頭が良く雄弁で、尚且つ忠誠心の強い人材は浪士組に必要だ。
そんな事を考えながら、土方は去って行く小さな背中をじっと見つめていた。

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