銀桜録 黎明録篇 | ナノ


3

(斎藤視点)


天運は、惨たらしくも人の願いに牙を剥く ─── 。


一体いつからだろうか。
彼女の手が血に染まる日を、恐れるようになったのは。
彼女のあの手は、人の心を温める優しい手だ。
あの白い手が赤黒く汚れるのを見たくないと思う自分がいた。

数日前、俺は奇妙な夢を見た。
それは、俺が名前と何やら会話をしていた夢だった。
具体的な内容は覚えていないが、何故かはっきりと覚えている部分があった。

"名前「…兄様達と一緒にいる事を選んだ時から、覚悟はしてる。私の手足は兄様達に尽くす為にある。兄様達の夢を叶える為にあるの。だから…何でも、受け入れなきゃ」"

夢の中で、彼女はそう言った。
夢であるはずなのに、これは彼女の本心だろうという確信があった。

彼女は断髪をしてまで浪士組に参加している。
並大抵の覚悟ではない。
それを否定する事は、彼女の抱く志を侮辱することになるだろう。

しかしそれでも。
彼女の手を守りたいと、彼女の事を守りたいと、思ってしまった。
他の誰でもない、己のこの手で。

しかし ─── 。


原田「逃げろ、龍之介!!」


人とも動物とも言えないようなその狂人は驚異的な脚力で飛び上がり、井吹に向かって刀を振り上げた。
井吹の身が危ない。
そう認識するよりも早く、足が動く。

しかしその直後、震える手で刀を構えた井吹は何者かによって突き飛ばされた。
尻餅をついた井吹を庇うように立ち、狂人の標的となったのは。


沖田「名前っ!!!」


総司の叫びが聞こえた。
彼女の目は、真っ直ぐに目の前の敵だけを見据えていた。
そして彼女に伸ばした俺の手は、届かなかった。

ドスッという鈍い音が響く。
刀が肉体を貫いた瞬間の、独特な音であった。
ゴポリと狂人から溢れた血の雨が、彼女の白い肌を染め上げる。

─── 天運は、惨たらしくも俺の願いに牙を剥いた。


斎藤「名前、離れろ!!」


男の胸に刀を突き刺した状態で、名前は固まっていた。
刀を引き抜くよりも早く、彼女の手を刀の柄から無理やり剥がす。
小さな体を抱き締めて男から距離を取るのと同時に、総司が俺と名前を庇うように立ちはだかった。

腕の中の名前から香るのは、いつもの優しい香りではない。
今や既に慣れつつある、血の匂いだった。

彼女は浪士組の一員だ。
遅かれ早かれこの時は必ず訪れていただろう。
だが……悔やまずにはいられない。
滴る赤黒い液体は、彼女の白い肌と不釣り合いだ。
まるで自分が袈裟斬りにされたかのように、胸が痛んだ。


幸か不幸か、名前の刀は男の心臓を見事に貫いていた。

皆が邸内へ戻る中、俺と総司と名前はその場に残っていた。
彼女の優しい色の髪や肌、着物に飛び散っている血を、総司が丁寧に拭っている。

俺は、男の胸に突き刺さった刀を引き抜く。
この刀が俺の刀であったら……。
この狂人の命を奪ったのが彼女ではなく、俺であったのなら……どんなに良かったか。
これ程までに強く思った事はない。

ザッ、と物音がして俺は振り返る。
その光景に、ドクリと心臓が跳ねた。


沖田「 ─── ─── 」


名前を強く抱き締める総司。
そして彼女の耳元で、何かを囁いた。
すると、名前は困ったように眉を下げて ─── 安心したような表情で、微かに笑った。

彼等の間には、誰よりも強い絆がある。
何があっても絶対に途切れないであろう、絆が。
それは、試衛館にいた頃から分かっていた事だった。

…だが、何故だろう。
何故これ程までに、胸が締め付けられるのか。

俺では、彼女にあんな表情をさせる事はできない。
総司のように、彼女を安心させてやれない。
絶対に俺は、総司に追いつく事はできないのだ。

彼女の抱える闇を知った時から、彼女の力になりたいと考えていた。
彼女を守りたいと、そう思うようになった。
だが実際、俺は何も出来ていない。
俺が伸ばす手はいつも、一歩遅いのだ。
そんな俺は、絶対に総司に追いつけない。

二人を見ぬよう、目を伏せる。
喉が張り裂けるような痛みがあった。
その痛みを振り払うように、彼女の刀に滴る血を懐紙で拭った ─── 。

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