銀桜録 黎明録篇 | ナノ


3

名前は井吹を引っ張りながら、斎藤と共に壬生寺の境内を訪れていた。


井吹「俺は剣術の稽古なんて…!」

名前「わかってるって!一君の稽古は凄いからさ、見学してようよ」


未だ抵抗をしている井吹を、名前は何とか説得しようとしている。
その会話を聞いて、斎藤は小さく息を吐いた。


斎藤「…無理に見学する必要はない。井吹を連れて来たのは、あの場から連れ出す口実だったのだろう」

井吹「え」

名前「…あ、ばれてた?」


斎藤の言葉に井吹は目を瞬かせ、名前は苦笑いを浮かべた。

そこで井吹は、ようやく自分が名前に連れて来られた理由に気づく。
井吹が居心地の悪さを感じている事に気づいた名前が、井吹を連れ出してくれたのだ。


井吹「…名前、すまない。ありがとう」


井吹は名前には比較的心を許しているためか、素直に謝罪と礼を言った。
名前は小さな笑みを浮かべてそれらを受け取る。


名前「いいっていいって!それよりもごめんね、一君。なんだか一君を利用したみたいになっちゃって」

斎藤「いや、それは構わん」


斎藤が静かに首を横に振れば、名前は安堵したように笑顔を浮かべた。


名前「よし!私も一君の稽古を見学してから自分の稽古をしようかなー」

井吹「…稽古って何するんだ?」

名前「まあまあ、見てなって!凄いんだよ、一君は」


名前は悪戯っ子のような笑みを浮かべると、グイグイと井吹を壬生寺の階段近くに押しやる。
そして自分も井吹の隣に移動してから、斎藤の方に視線を向けた。


斎藤「見ていて楽しいものではないかも知れぬが…。それで良ければ、見ているといい」


そう告げた斎藤は、木の下へと歩いていく。
そのまま彼は膝を付いて静かに目を閉じた。
精神を統一しているのだろう。

暫くすると斎藤の右手が鞘に添えられ、彼の左手は柄へと伸びた。
その時。
ふと風が吹いて枝を揺らし、斎藤の頭上へ音もなく舞い降りてきた。

その刹那。
目にも止まらぬ速さで姿を現した刀身。
その刀は月光に煌めくよりも速く、舞い降りた木の葉に振り下ろされる。
ぴたりと空中で制止した刃先には木の葉があり、見事に真っ二つに断ち切られていた。
斎藤が刀を鞘に戻すのと時を同じくして、ひらりひらりと半分になった木の葉が地面に落ちる。

達人級の居合いである。
バクバクと、名前の心臓は高鳴っていた。
初めて斎藤の居合いを見たのは、四年前のあの日。
雪降る中で初めて見た彼の剣は美しく、それは名前を助ける為のものであった。

名前は言葉を失ってしまう程に感動して見入っていたため、先に口を開いたのは井吹の方であった。


井吹「…凄いな。こんなに速い動きは初めて見たよ」


此方へ戻ってきた斎藤に対して井吹が素直に賞賛の言葉を贈ると、斎藤は居心地が悪そうに視線を逸らした。


斎藤「…そこまで言う程のものではない。まだまだ無駄な動きが多過ぎると自分では思っている」


彼は謙遜しているが、斎藤の居合いは名前が初めて見た時よりもさらに速くなっている。
彼は一体、どこまで強くなるのだろうか。

斎藤が井吹に居合いの説明をしているのを横目に、名前はぼんやりとそのような事を考えていた。


井吹「…どうしてあんたは普通の剣術じゃなくて、居合いを学んだんだ?」


斎藤の説明を聞き終えた井吹は、疑問を口にして首を傾げていた。
それは名前も聞いた事が無かったため、斎藤に視線を向ける。


斎藤「…居合いならば、初太刀を外さなければ、ほぼ確実に相手を仕留めることができるからだ」


それは井吹も名前も予想だにしていなかった返答であった。
驚いて言葉を失う二人に、今度は斎藤の方が問いを投げかけてくる。


斎藤「据え物斬りには、茣蓙二枚を重ねて竹に巻き、水を吸わせた物を使う。何故かわかるか」

井吹「いや…」

名前「…そういえば、何でだろう」


剣について無知な井吹は勿論、名前もそれについては理由を知らない。
理由までは考えた事もなかったのである。
二人の答えに、斎藤の瞳には陰が落ちた。


斎藤「…ちょうど、人間の首と同じ太さになるからだ」


その言葉に井吹の目が大きく見開かれ、名前も思わず息を飲んだ。


斎藤「…どの流派の居合いにも、必ず介錯の術は存在する。俺は、竹刀や木刀の扱いを学んだり、技術をひけらかす為ではなく…この刀を使う為、人を斬る為、此処に来た」


闇夜に潜む切れ長の蒼は、静かで強かであった。
その瞳の強さは、彼の『覚悟』の表れだと名前は察する。


井吹「…俺には…よくわからない」


井吹の声は掠れていた。
井吹にとって斎藤は、別の世界を生きている人物なのだろう。
それを目の当たりにし、衝撃を受けているようであった。


斎藤「…わからぬのならば、その方がいい」


そう言って小さく微笑んだ斎藤は、何だか寂しげであった。
その姿は、斎藤が姿を晦ましたあの時と同じように、溶けてしまいそうな儚さがあった。

だが恐らく、彼の内側に踏み入る事は許されない。
もし聞いてしまえば斎藤は心を閉ざしてしまうという強い確信が、名前にはあった。

彼が辛い思いをしたと頭では理解できても、その辛さを心で理解する事はできない。
痛みを共有し、分かち合うことは不可能なのだ。
何と寂しいことだろうと名前は思う。

彼が心に負った傷が癒える日は来るのだろうか。
剣に生きる彼が、幸せになる日は来るのだろうか。
自分が斎藤に癒しを与える存在になりたいなどと、烏滸がましい事は思わない。
剣に生きる彼が名前を受け入れるなど有り得ないからだ。
ただそれでも、彼の傷を癒すものが在ってほしいと名前は強く思う。


斎藤「…そんな顔をするな、名前」


不意に温かい指が頬に触れて、名前は俯いていた顔を上げさせられる。
見上げた先には美しい蒼。
寂しげな色が消えた、海のように深い蒼がそこにあった。

名前が思わず目を見開くと、するりと斎藤の手が離れ、彼は気まずそうに視線を逸らしながら口を開く。


斎藤「…あんたもやってみるといい」

名前「…えっ?えっと、何を…?」

斎藤「居合いだ」


思考が止まり、ぽかんとして斎藤を見上げる。


名前「…えっでも…私、居合いはあんまりやった事ないし…」

斎藤「…あんたは器用だから案外出来るかもしれん」

名前「そんな事ないと思うけど…」

斎藤「己の限界を己で決めるな」


普段は優しい斎藤だが、剣術の事となると途端に厳しくなる。
名前が相手であってもだ。

ついて来いと言わんばかりに斎藤が木の下へ戻って行ったため、名前は慌てて彼を追いかける。
井吹はというと、斎藤から居合いを指導してもらっている名前の様子を見守っていた。

名前が斎藤に言われた通りに見よう見まねで刀を抜けば、刀身が露になる。


名前「……うーん、難しい」


何度か居合いの動きを繰り返す名前だが、不規則に舞い落ちる木の葉には掠りもしていない。


斎藤「…闇雲に振るな、精神を統一しろ」

名前「あっ、そうだった。ごめん」


いつもと動きや感覚が異なるため、考える事が多いのだ。
そもそも名前が稽古で真剣を使うようになったのはこのひと月の事であり、ようやくその感覚に慣れてきたところなのである。

斎藤の助言を受けて名前の居合いの動きには少し余裕が生まれたものの、やはりぎこちない。
意識して精神統一をするのが難しいらしく、何度やっても鋒が斬るのは空であった。


斎藤「…名前」


斎藤が声をかければ名前は動きを止めた。
余計な事は考えるなと助言したいところであったが、考えなければ動けない初心者なのだからその助言は適切では無い。
そう判断した斎藤は、言葉を変えた。


斎藤「…あんたは、何の為に刀を握っている?」

名前「…兄様達の役に立ちたいから。兄様達に尽くして、恩返しをしたい」

斎藤「ならば…如何様な剣になりたいのだ?」


一瞬だけ名前の視線が刀身に落ちる。
しかし焦茶色は、すぐに斎藤を見上げた。


名前「私は、人を守る剣になりたい」


柔らかな風が吹き抜けた。
木々の葉が擦れる音に乗り、名前の艶やかな髪が風に靡く。
はらりと名前の頭上を舞う木の葉が、まるで桜の花びらであるかのような錯覚に襲われる。


斎藤「…ならば、それを意識してみろ」


一瞬で名前を取り巻く空気が変わった事に斎藤は気づき、小さく口角を上げる。
今の彼女ならば出来ると、そんな確信があった。

名前は目を閉じて、斎藤に言われた通りに意識を集中させる。
名前の脳裏に流れる光景は、町の中。
不逞浪士に取り囲まれて、追い詰められた状況。
ふと背中越しに感じる気配は、斎藤と沖田だ。
守られるだけなど真っ平御免。
皆を、守りたい。
背中合わせの三人は、敵に意識を集中させる。

そして、浪士の一人が足を僅かに動かす気配。
その刹那、名前は刀を引き抜いた。
電光一閃、鋭く白刃が煌めく。


斎藤「見事だ」


その声で我に返れば、名前の足元に落ちているのは歪ながらも二つに切り裂かれた木の葉であった。


名前「わあっ、できた!一君見て見て、切れたよ!すごい、ありがとう!」


名前は嬉しそうに笑うと刀を鞘に納め、「龍之介ー!見てー!」と二枚の葉を持って無邪気に走っていく。

名前の、先程の居合い。
勿論斎藤に比べれば遥かに遅く、不格好な居合いである。
しかし筋はかなり良い。
守ることに意識を向けるだけで彼女はこれ程までに変わるのか、と斎藤も内心は驚いていた。

木の葉だけでなく、空間をも切り裂くような一太刀。
月光に輝いたのは、刃こぼれも血も知らぬ、白い刃であった。
斎藤の刀よりも刀身が少し太く、彼女の刀が真新しいことが見てとれる。

穢れを知らぬあの刀もいつか血に染まる日が来るのか、と。
僅かに目を細めて名前を見つめる斎藤であったが、彼女がそれに気づくことはなかった。

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