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その後名前と斎藤、そして沖田は八木邸へと戻った。
沖田が手を引く名前は、覚束無い足取りで歩いている。
その様子を、斎藤は後ろからただじっと見つめていた。
八木邸へと着いた時、最初に会ったのは藤堂であった。
藤堂「総司っ!?その血…!」
沖田「うるさいな、何処も怪我なんてしてないよ」
血に塗れた沖田の姿を見て、藤堂は驚いたように声を上げた。
沖田はそんな藤堂を軽くあしらうと、名前の手を離し、玄関に腰掛けて草鞋を脱ぎ始める。
そんな彼を、名前と斎藤は黙って見つめていた。
土方「 ─── 総司!!」
騒ぎを聞きつけたのか、部屋の奥から土方達が現れた。
井吹から話を聞いたのか、彼らのその表情は切羽詰まっている。
沖田「…あれ?土方さん。どうしたんですか、そんなに慌てちゃって」
いつものように飄々とした口調で答える沖田。
しかしそんな彼の着物や顔にこびりついた返り血に気付き、土方は絶句した。
土方「総司、てめえ…その血は…」
沖田「説明なら中でしますよ。少し休ませてくれませんか。人を斬ったばかりで、疲れてますから」
肩を震わせて詰問する土方であったが、沖田は大して気にした様子も無くさっさと邸内へ戻って行く。
それを見た斎藤は、静かに口を開いた。
斎藤「…副長、申し訳ありませんでした。我々が向かった時には、殿内は既に息絶えておりました」
土方「…そうか」
斎藤の報告を聞いた土方はきつく唇を噛み締めており、他の者達も視線を落としていた。
今まで、これほど空気が重かったことは無かっただろう。
藤堂「…名前。血付いてる」
俯いている名前に藤堂が手拭いを差し出すと、名前は「ありがとう」と言ってそれを受け取った。
しかしそれは彼女からは聞いたことが無いほど静かな声であり、その場にいた者全員が違和感を抱くような声であった。
そして皆の視線が名前に集まったのも束の間、彼女は己の顔を乱暴に拭くと、ズカズカと邸内に上がり込んで来る。
土方「…待て。何処に行く」
彼女の小さな体から迸る怒りを感じ取った土方は、咄嗟に名前の肩を掴んだ。
名前「…何処に?決まってるでしょう、芹沢さんの所です」
振り返った名前は、無表情であった。
しかし彼女の焦茶色の瞳は、怒りで静かに燃え上がっている。
土方「…あの人の所になら、俺と近藤さんで行く。てめえは部屋に戻れ」
名前「……は?」
途端に名前の目が吊り上がった。
こめかみには青筋が浮かんでおり、普段の明るい笑顔は見る影もない。
名前「…部屋に戻れ?何もしないで黙ってろっていうんですか?」
土方「ああ、そうだ」
名前「ふざけないで」
名前はぴしゃりと言い放つ。
同時に土方の眉間にも皺が寄り、お互いに睨み合いが始まった。
近藤「お、おい、トシ。名前も ─── 」
名前「こんな仕打ちを受けて黙ってろって?出来るわけないでしょう。あの人の所に行かせてください、どういうつもりか問いただします」
仲裁に入ろうとした近藤であったが、二人の眼中には今、互いの姿しか映っていなかった。
名前の言葉を聞いても土方は一切動揺を見せない。
本紫の瞳を鋭く光らせ、名前を見据えている。
普段なら、土方の罵声が飛んでもおかしくはない状況であった。
しかし ─── 。
土方「…もう一度だけ言う。部屋に戻れ、名前」
怒鳴りもせず、殴りもしない。
それは、全く感情が読み取れない声色で。
名前を見下ろす土方の瞳は、酷く冷たかった。
…ぷつん、と。
名前の頭の中で、何かが切れる音がした。
名前「…っ、あなたはっ ─── !!!」
永倉「おい、よせ名前!!」
藤堂「落ち着けって!!」
勢いよく土方に掴みかかろうとした名前。
しかしそんな彼女を、すんでのところで永倉と藤堂が押さえつける。
男二人がかりで動きを封じるのがやっとな程、名前は暴れていた。
永倉と藤堂に羽交い締めにされながら、名前はじたばたと足を動かす。
名前「総ちゃんはあの人に利用されたんですよ!?あの人は総ちゃんの忠誠心を利用した!!総ちゃんはあの人に同士討ちをさせられた!!大切な友達が汚名を着せられて、それなのに黙ってろって?ふざけんじゃないわよ!!」
動きを封じ込められながらも、土方に向けて必死に叫んだ名前。
その言葉を聞いた土方以外の者達は、ハッとして名前を見た。
" 同士討ち " ─── 。
彼女が放ったその言葉で、沖田のした事が何を意味するのかを理解したのである。
長く時を共に過ごしてきた仲間が、同士討ちの汚名を着せられた。
利用されたとはいえども、私闘は厳禁と定められた局中法度の下、沖田に切腹が言い渡されてもおかしくはない状況なのである。
しかし土方は、顔色ひとつ変えなかった。
土方「…近藤さん、行くぞ」
恐ろしい程に無表情な土方。
彼は鋭い目付きで名前を一瞥すると、風を切って近藤と共にその場から去っていく。
名前「土方さん!!ねえ、土方さんっ!!」
名前は、土方達の姿が見えなくなるまでもがき叫んでいた。
しかし、バタンと襖を閉じる無機質な音が響くと、名前は事切れたように大人しくなった。
名前と土方の言い合いは、試衛館時代からの名物である。
しかしそれは本気の喧嘩ではなく何処かお互いに楽しんでいる節があり、他の者達もそんな二人を見るのは好きだった。
しかし、先程の二人はどうだろう。
そもそも名前は、殴り合いというものが好きではない。
そんな彼女が、土方に掴みかかろうとしていた。
土方に向かって吠える姿はまるで狼のようであり、それだけ本気の怒りであったことがわかる。
火事と喧嘩は江戸の華、という言葉がある。
しかし二人の先程の喧嘩は、華と呼べるほど気持ちのいいものではなかった。
藤堂「…名前…?」
藤堂は恐る恐るといった様子で大人しくなった名前に声をかけた。
永倉と藤堂が名前を押さえつける手をゆっくりと緩めれば、彼女は力なくその場に座り込む。
名前「…なに、やってんだ。私」
へたり込んだ名前から出た言葉は、酷く弱々しいもので。
己の行いを後悔するものであった。
名前「…土方さんが、分かってないはず無いのに。土方さんだって怒ってるはずなのにね」
自嘲するような微かな笑み。
それを見た藤堂達は顔を見合わせ、何も言わずに視線を落とす。
名前は、全て分かっていた。
自分が叫んだ内容など、土方はとっくに心得ていることを。
しかし、言わずにはいられなかったのだ。
芹沢に怒りをぶつけようとしたところを止められ、何処にぶつけていいのか分からなくなった怒りが爆発してしまったのである。
要は八つ当たりだ。
そして恐らく土方も、名前の思いを全て分かっていた。
行き場のない怒りに苦しむ名前に気づいていたからこそ、土方は何も言わなかった。
名前の怒りを受け止める事に土方は徹していたのである。
あまりにも優しすぎる鬼。
土方には、そんな言葉がぴったりだ。
永倉「…悪かったな、強く押さえちまって。部屋、戻れるか?」
名前「うん、大丈夫。…ごめんなさい。見苦しい所を見せました」
名前は永倉の言葉に頷いてから、その場にいた者達に向けて深く頭を下げる。
永倉達は、『沖田が人を斬ってしまった』という事に意識が向くあまり、事の本質を理解していなかった。
名前のあの叫びが無ければ、事の重大さに気付く事が出来なかったのだ。
だから、彼女を責める者は一人もいなかった。
頭を上げた少女は、永倉に連れられてその場を去っていく。
去り際に見えたその瞳は、何かを深く憂いていた。
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