銀桜録 黎明録篇 | ナノ


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その日の夕餉には、井吹の姿もあった。
どうやら芹沢と新見は懲りずにまた島原へと出向いたらしいと知った名前が、井吹を八木邸での夕餉に誘ったのである。

一人増えようが名前達の食事風景は変わらない。
永倉と藤堂が普段通り晩御飯争奪戦を繰り広げ、その他の者は仲良く会話をしながら晩御飯を味わっている。

井吹が夕餉に誘ってくれた礼に皆のお代わりをよそうと言ってくれたため、名前はその言葉に甘えて、久しぶりに立ち歩くこと無くゆっくりとご飯を食べていた。
すぐ向かいの席では、既に米を食べ終えたらしい藤堂が井吹にお代わりを頼んでいる。

すると、名前の隣に座る斎藤が珍しく自分から口を開いた。


斎藤「…この家の香の物は絶品だ。炊きたての白米と共に食した時にこそ、その真価を発揮する。単純な物ほど奥深いということか…」

藤堂・井吹「「はあ……」」


何やら一人で飯の分析をしている斎藤に、藤堂と井吹は目が点になっていた。
それを見ていた名前は、くすくすと笑っている。


名前「一君ってさ、結構味にうるさいよね」

斎藤「…そうだろうか」

名前「うん。あと、ご飯が美味しい時とあんまり美味しくない時の差が結構わかりやすい。源さんが作った時と平助が作った時じゃ、全然反応が違うもん」

井吹「…斎藤の反応が違う…?」

藤堂「なっ、名前!それどういう意味だよ、絶対悪い意味だろ!」

名前「一君は濃い味付けが苦手なんだってー」


名前の言葉に首を傾げたのは井吹である。
井吹からすれば、斎藤がわかりやすい反応をするなど考えつかないようだ (勿論この場合は名前の方が特殊であり、実際は斎藤の反応は殆ど顔には出ていない)。

一方で藤堂は、名前に文句を言っている。
その隙を見逃さなかったのは永倉だ。


永倉「隙ありっ!!」

藤堂「あーーーっ!!オレの魚!!」


目にも止まらぬ速さで藤堂の魚がかっさらわれて、永倉の口の中へと消えていった。
ここまでくると見事な早業である。


藤堂「ならオレだって!!」


藤堂も負けじと永倉の飯に箸を伸ばすが、永倉が見事な防御を繰り広げている。
そこからはまた熾烈な争奪戦だ。


藤堂「龍之介、ぼやぼやしてんなよー!お前も気をつけろ!」

永倉「盗られる前に盗れ!」

井吹「そ、そうか。じゃあ遠慮なく ─── 」


永倉によって焚きつけられた井吹が手を伸ばしたのは、斎藤の膳であった。
斎藤は主菜にまだ手を付けていないらしく、沢山残っていたのである。

しかし、その瞬間。
目にも止まらぬ速さで、井吹の喉元に斎藤の箸が突きつけられた。


井吹「ひっ、!?」

斎藤「用があるのならば、食事が済んでからにしろ。獣の世界で他者の食事を邪魔したら、食い殺されても文句は言えぬぞ」


井吹を睨みつける斎藤の瞳には殺気が篭っていた。
心做しか、その背後には鬼の顔が見える。


斎藤「ついでに言うならば、これは俺の好物だ。決して、手を出すな」

井吹「わ、わ、悪かった!」


斎藤の放つ殺気に耐えかねたらしく、青ざめた井吹はドタッと尻餅をつき、慌てて謝った。
それを見た斎藤は何も言わずに箸を下ろすと、静かに食事を再開する。
井吹が命からがら自分の席へと戻ると、隣の原田が笑っていた。


原田「お前も命知らずだな。よりによって斎藤の飯を狙うとはよ」

井吹「…俺は好物を最初に食べる質なんだよ!」

名前「龍之介、狙うなら土方さんにしなよ」

土方「ふざけんな」

名前「うわっ、地獄耳…」

土方「丸聞こえなんだよ!」


此方は此方で新たな言い合いが勃発している。
そんな中、争奪戦に打ち勝ったらしい永倉は副菜に視線を向けた。


永倉「…なんだこのおひたし、雑草か?食えんのか?」


つんつんとおひたしを突っつく永倉は、訝しげな目をしている。
いくら金に困っていても、さすがに雑草を出すことはないだろう。
名前が苦笑いしていると、近藤が口を開いた。


近藤「それは壬生菜というんだ。農家の方々が汗水流して作ったものなんだからな、好き嫌いはいかんぞ」

永倉「へいへい」


近藤の言葉に頷いておひたしを口へと放り込んだ永倉。
食べながら、「近藤さんは農家の出だけあってそういうことにはうるせえんだよな…」とボソリと呟いている。
それを聞いてぽかんとしているのは井吹だ。


井吹「武士の生まれじゃないのか?」

藤堂「おう。だけど木刀持たせるとめちゃくちゃ強くてさあ!で、試衛館の近藤周斎先生に見込まれて、養子になって跡を継いだんだ」

井吹「へえ…」


井吹は感心したような眼差しを近藤に向けた。
その視線の先では、近藤と土方が昔話に花を咲かせており、近藤が豪快に笑っている。


永倉「まあでも、俺達もようやく会津藩お預かりって立場になったんだし……」

藤堂「夕食はもっと豪華になってもいいよな!なあ、土方さん!」


藤堂が話題を振った事で、全員の視線が土方に集まる。
土方は静かに茶碗を置いてから口を開いた。


土方「…そいつは、給金の話が出てからだな」

永倉「…ちょっと待ってくれ、どういうことだよ?まさかタダ働きしろってか?」

土方「活動に必要な金は、その都度会津藩の公用方に請求しろとの事だ」

原田「その都度請求って…飯代とか生活に必要な金はどうすんだ?その辺、もっと深く話し合った方がいいんじゃねえのか?」


原田の言葉は最もであり、土方もそれをわかっているのか苦い顔である。
永倉の言う通り、これでは完全にタダ働きである。
活動資金はその都度請求など、良いように使われているような気もするが…。


近藤「…まあ、先鋒も我々が信頼に値する存在なのかどうか、はかりかねているのだろう」

藤堂「そうなんだ…」


近藤は困ったような表情をしており、それを見ると何も言えなくなってしまう。
近藤達も何とか交渉をしているところなのだろう。

しかしこの現状では、実績も無い浪士組に出せる金は殆ど無いと言われているのと同じだ。
ようやく後ろ盾が見つかったと思ったのに、相変わらず崖っぷちの状況である。

何故こうも自分の不安は現実になるのだろう、と思いながら名前が味噌汁を啜った時であった。


沖田「ご馳走様」


カチャリと音がして、沖田が箸を置いた。


近藤「総司、早いな」

沖田「剣術の稽古をしないと。今は一時でも、時間が惜しいんです」


そう言って沖田はすっくと立ち上がった。
近藤の言う通り、いつもよりも食べ終えるのが早い。
一見練習熱心な発言に聞こえたが、名前は違和感を覚えた。
いやに焦っているような声に聞こえたのである。


永倉「食事のすぐ後に稽古をするのは体に良くねえぞ」


部屋を出て行こうとした沖田であったが、永倉の言葉を聞いて足を止めた。


沖田「…新八さんと一君はずるいよねぇ。僕も早いとこ、不逞浪士を沢山斬ってみたいよ」


皆の方を振り返らず、沖田が言い放った言葉はいつもよりも冷たい。
明らかに様子のおかしい沖田に皆が戸惑いを覚える中、立ち上がったのは名前であった。


名前「…ねえ総ちゃん、最近どうしたの?この間からちょっと変だよ、何かあったの?」


沖田の傍に駆け寄って、くいっと軽く沖田の着物の袖を引っ張る。
すると、漸く沖田が名前の方を振り返った。
その表情はいつもの様に飄々としたものではなく、なんだか苛立っているように名前には見えた。


沖田「…君は人を斬りたいと思わないの?」

名前「…さっきから何言ってるの?思うわけないじゃない、そんなこと」

沖田「ふうん」


淡萌黄の瞳に見下ろされた瞬間、名前は凍りついた。


沖田「呑気でいいよね、君は。近藤さんの妹だから、それだけで居場所があるもんね」


名前を見下ろす彼の瞳は、酷く冷たかったのである。
沖田がそんな視線を名前に向けるのは、一体いつぶりだろうか。
目の前が真っ暗になった気分であったが、何とか沖田の目を覚まさせようと必死に訴えかける。


名前「呑気でも何でもいいよ、私のことはどうとでも言えばいい。でも、人を斬りたいなんて絶対言わないで。人の命を軽く扱わないで!」

沖田「…何、僕に説教するつもり?」

名前「…ねえ、本当にどうしちゃったの?総ちゃんはそんな人じゃないでしょ?総ちゃんは凄く優しい人なのにっ、」

沖田「っ、うるさいな!!」

名前「あっ、…!」


パンッ、と乾いた音がした。
沖田が、名前の手を振り払った音だった。
それと同時に沖田は名前の体を突き飛ばしたようで、沖田より一回り以上小さな体がぐらりと傾く。


斎藤「……っ、」


倒れそうになった名前を、すんでのとこで支えたのは斎藤であった。

自分の背後で言い合いをする二人の様子を窺っていた斎藤。
沖田が名前を突き飛ばしたのを見て瞬時に立ち上がり、倒れかけた名前の体を抱きとめたのである。
流石の反射神経だ。

しかし今の名前には斎藤の事など頭に入ってこないようで、目を見開いて沖田を見つめていた。


原田「おい、総司!やり過ぎだ、何も突き飛ばすこたァねえだろ」

藤堂「そうだよ。それに名前の言う通り、お前最近変じゃねえ?」


原田と藤堂から非難の言葉が飛んでくるが、今の沖田には全く聞こえていないようであった。
斎藤と、その腕の中にいる名前を睨みつけている。

すると、静まり返ったその場に響いたのは土方の声であった。


土方「総司。お前は江戸へ帰れ」


土方の言葉を聞き、沖田の目が見開かれる。
何を言われているのかわからない、そう言いたげな表情であった。


沖田「…その冗談、面白くとも何ともありませんよ?」


冷静を装おうとしているようだが彼の声は微かに震えており、動揺が見てとれる。
一方で土方の様子はまるで水面のように静かで、感情が読み取れない。
それが余計に沖田の焦りを増幅させていた。


土方「おまえがここ最近、やたらと "斬る" だの "殺す" だの言い始めたのは、芹沢さんの影響だろう?お前はガキなんだ、自分を保てなくなっちまってる」

沖田「土方さんは、近藤さんの傍にいる僕のことが邪魔なだけでしょう!?」

土方「そう思いたかったら、勝手に思ってりゃいいさ」


土方は沖田をまるで相手にしていない。
それに気づいたらしく、沖田は悔しそうに顔を歪めていた。
その表情は切羽詰まったもので、そして今にも泣き出してしまいそうで、名前は小さく息を飲む。


近藤「…トシ、いきなり何を言い出すんだ」

土方「俺達は京の治安を守るためにここにいる。だが此奴は、"人を斬る" 、それしか頭にねえ。そんな奴を此処に置いておくわけにはいかねえ」


それまで状況の推移を見守っていた近藤は、目を閉じて深く考え込んでいた。
どちらの言い分も理解出来るからこそ、何かを悩んでいる様子であった。
その後すぐに、近藤は何かを決意したように顔を上げる。


近藤「…総司、」

沖田「嫌です!!」


近藤の表情から何かを察したらしい沖田は、近藤を遮って声を荒らげた。


沖田「僕は絶対に帰りませんよ!此処に残って、必ず近藤さんの役に立ってみせますから!!」

近藤「総司!!」


沖田はそう叫ぶと、近藤の制止の声も聞かずに部屋を飛び出して行ってしまった。
走り去って行くその背中が、名前には今にも壊れてしまいそうに見えて。


名前「…っ、待って、総ちゃん!!」


斎藤の腕から抜け出し、沖田を追いかけて部屋を出ようとする名前。
しかし、


土方「名前!!」


鋭い声が空気を震わす。
ビクッと体を跳ねさせた名前は、反射的に足を止めた。


土方「…座れ、名前」

名前「でも総ちゃんがっ、」

土方「聞こえねえのか?座れっつってんだ」

名前「…ごめん、なさい…」


土方の声が、ビリビリと名前の体を痺れさせるように浸透する。
名前は肩を落とすと、土方の言う通りに自分の席に戻った。
正座をする瞬間、自分の足が微かに震えていることに気づく。


土方「…頭が冷えりゃ戻って来る。ガキが駄々こねてるだけだ、今てめぇが行っても余計に刺激するだけだろうが」

名前「…っ、」


名前は袴の裾をぎゅっと握り締める。
自分が行っても逆効果、なんて。
今まではそんなこと無かったのに、有り得なかったのに。
それは、傲りだったというのか。

バッサリと。
刀で心を袈裟斬りにされたような、そんな気分だった。
先程まで味がしていたはずの料理は、まるで砂のように感じた。

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