銀桜録 黎明録篇 | ナノ


2

名前「これはまた…派手にやられたね」

井吹「これはまだマシな方だ…いって!」

名前「っと、ごめんね」


頬の傷を押さえながら飛び退くのは井吹である。
消毒液を持ったまま、名前は苦笑いを浮かべて謝った。

あの後暫くして、永倉と原田、斎藤、沖田、藤堂、井吹の六人が先に戻ってきた。
土方や近藤、そして芹沢と新見の姿が無いということはまた揉めているのだろうと察した名前。
沖田が妙に静かなことも気になった。

しかしそんな中、井吹が顔に怪我を負っていることに気づき、自分の部屋まで引っ張って来て手当てを行っているところである。
井吹は最初は抵抗していたものの、「手当てをしないのならば、寝ている間に傷口に辛子味噌を擦り込む」と名前に脅されて大人しく従ったのであった (井吹は後日、「彼奴のあの目は本気だった」と語っている)。


名前「…それで、何があったか教えてくれる?」

井吹「…ああ」


顔を顰めながら彼が話した内容は、こうであった。

まず、詳しい経緯は分からないが芹沢に刃向かった舞妓がいたらしい。
芹沢が舞妓を侮辱するような発言をしたのだろうとは大体予想がつくが。
そこで怒った芹沢がその舞妓に猪口を投げつけ、額に傷を負わせたのだという。
さらには鉄扇を振り上げるものだから、井吹がその舞妓を庇って芹沢を咎めれば、代わりに井吹が芹沢に殴り飛ばされてしまった。
かなりの大きな騒ぎとなったため、藤堂が土方と近藤を呼びに来たということであった。

正直、大方は予想通りの内容だ。
面倒なことに酒の入った芹沢は、横暴さがさらに増すのである。
何故こうも問題ばかり起こすのだろうか、ここまでくれば驚きや不安を通り越して呆れに近い。
やれやれ、とばかりに名前は溜息を吐いた。


名前「…傷、痛む?」

井吹「え?…ああ、いや。大した事ない」

名前「それならいいけど…何か芹沢さんに言われたとか?」

井吹「それはいつものことだが…何だよ?」

名前「…少し、思い詰めてるみたいな顔してるから」


井吹は名前から目を逸らした。
この反応は恐らく図星なのだろう。

やがて井吹は、ゆっくりと口を開く。


井吹「…その舞妓が言ってたんだ。『武士なんか大嫌いだ』って」

名前「……」

井吹「…俺も同じだ。俺も武士は嫌いだ」

名前「…そっか」


井吹の瞳に浮かぶのは、憎しみの色。
そこに今、名前の姿は映っていないのだろう。

パタンと小さな救急箱を閉じる音で、彼は我に返ったらしい。
ハッとしたように顔を上げると、名前を視界に入れた。


井吹「あ…い、いや、悪い。別にお前のことを悪く言ってるわけじゃなくて、」

名前「あはは、ありがとう。井吹も少しは気を遣ってくれるんだね」

井吹「…どういう意味だよ」

名前「ごめんってば、怒らないで」


ムスッとした井吹を見て、名前はカラカラと笑い声を上げながら彼の背中を叩いた。
そんな名前を見て、井吹は目をぱちくりとさせている。


名前「…?どうしたの?」

井吹「…いや…何でお前は怒らないんだ?」

名前「怒るって…何に?」

井吹「…だって俺は…あんたが尊敬してる近藤さんや土方さんがなりたがってる武士を、嫌いだって言ったんだぞ」


井吹にとって、名前の性格は理解出来ない部分も多かった。
穏やかで優しいと言ってしまえばそれまでなのだが、彼女の怒りの沸点が分からない。

日々の様子を見る限りでは感情表現が豊かで、土方と言い合いっているのを時折見かける。
短気というほどではないが、名前が怒りを隠す質ではないことは何となく井吹も見抜いているのである。

すると名前は、「うーん」と言いながら考え込むような仕草を見せた。


名前「…怒らないのは、怒ってないから…なんだけど」

井吹「…だから、何で怒ってないんだよって。嫌じゃないのか?」

名前「うん、全然」


井吹の言葉に頷いた名前は、井吹が拍子抜けする程けろっとしていた。


名前「…だってさ、考え方って人それぞれじゃない。倫理的に拙いことなら話は別だけど…個人の思いを否定するのは、私は苦手だから」

井吹「…個人の、思い?」

名前「うん」


そういうと、名前は井吹の隣に座った。
胡座ではなく正座で、やはりその仕草は女性らしい部分が見える。


名前「…私がここに来たのは、兄様達に恩返しをしたかったからなの。少しでも皆の役に立てればと思って、無理言って参加させてもらったんだ」

井吹「…前に沖田が言っていた話か?」

名前「そうそう、髪を切った話」


へらっと笑った顔はまだ幼さが残る顔立ちだ。
斎藤と藤堂の一つ下の年齢ということは、彼女は井吹よりも年上である。
あどけない顔立ちや無鉄砲さから、井吹はどうしても彼女が自分よりも年上には見えないのである。
しかしその印象は、覆ることとなる。


名前「私は、兄様達の為ならいつでも何処までも走る。兄様達が武士を夢みているのなら、私はひたすら尽くすだけ。自分に出来ることなら何だってするよ。兄様達には、一生かかっても返しきれないくらいの恩があるから」

井吹「……」

名前「…だけどさ、現実の武士は綺麗な部分だけじゃないこともちゃんとわかってる。それによって傷ついた人が沢山いることも知ってる。…これってさ、何にでも言える事だと思うの」

井吹「…何にでも?」

名前「…人それぞれ違う考えがあって、だから国の中は今対立してて。皆、それぞれの思いを抱えて生きていて、それが生きる理由になっている人だっている。だからね、相手の事情も知らずに自分の価値観を押し付ける事だけはしたくないんだ。相手の言い分も聞かずに振りかざす意見なんて、それは正義じゃないと思う」

井吹「……」

名前「だから私は、人の思いには口を出さない。出したくない。その人の生き方をも否定することに繋がりかねないから」


「…これで答えになった?」と笑う彼女は、今まで通りの彼女であった。
しかし、何だろう。
名前が静かに語り始めてから、彼女の雰囲気がガラリと変わったことには井吹も気づいていた。

『天真爛漫』も『穏やかで優しい』も当てはまらない。
己の在り方を語る名前は優美で、凛々しかった。

カラカラに乾いた喉で、井吹はゴクリと唾を飲む。
彼女の語りに圧倒されて、声が出るまでにかなり時間がかかったような気がした。


井吹「…あんた…実は、尼だったりするのか?」


そして、ようやく発した言葉がこれである。
その言葉に、名前はブフッと思い切り吹き出した。


名前「ぷっ、あははっ!別に俗世から離れてないよ」

井吹「…じゃあ、何だってそんなに徳が高いんだよ」

名前「そんなんじゃないって。さっきも言ったじゃん、世の中には色んな考えを持つ人がいるんだよ」


井吹を諭す名前は、いつもよりも遥かに大人びて見える。
先程までは一滴たりとも雫が落ちない水面の上に立っているような、そんな緊張感に包まれていたが、その空気がようやくいつも通りに戻ったような感覚に井吹は陥っていた。


井吹「…世の中があんたみたいな人ばかりなら、戦なんて起きないんだろうな」

名前「それはそうかも。私、争い事は嫌いだし」

井吹「…その代わり、毎日うるさそうだけどな」

名前「うわっ、酷い!落とすくらいなら上げないでよ!」


揶揄うような視線を向ける井吹に、名前はムッとして頬を膨らませる。
しかしお互いにその表情はすぐに破顔し、笑顔になった。

この日から、二人が以前よりも打ち解けたのは言うまでもないだろう。

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