銀桜録 黎明録篇 | ナノ


3

沖田「なんだか悔しいなぁ」


名前が斎藤の部屋を去った後の事。
入れ違いになるように、沖田がふらりと斎藤の部屋へやってきた。


斎藤「…何の話だ」

沖田「名前の事だよ」


いつも通りへらっとした笑みを浮かべている沖田とは対照的に、斎藤に表情の変化は見られない。
蒼と淡萌黄がぶつかり合った。


沖田「…最近、一君の方が名前に詳しいみたいだから」

斎藤「…そのような事はないと思うが」

沖田「あるよ。僕、名前の事なら何でも知ってるつもりだったんだけどな。それなのに、まだ知らないことがあるみたいだし」


ようやく斎藤の表情が動いた。
ほんの一瞬、微かに斎藤が眉を顰めたのである。


斎藤「…総司。彼女を余計に詮索するのはよせ」

沖田「それはしないよ。僕もあの子の顔が曇るのは嫌だから」


それは、斎藤の先程の言葉と同じものであった。
斎藤はここでようやく確信を得る。
先程の名前との会話を、沖田が外で聞いていたのだろうと。


沖田「あの子が自分から話してくれるまでは何も聞かない。…だけど、ずっと一緒に居たのに僕には言ってくれないのがちょっと悔しいだけ」


一瞬、沖田の瞳に寂しげな色が浮かんだ。
すぐにいつもの飄々とした笑みを浮かべた沖田であったが、斎藤は思わず彼の顔を凝視する。
それほどはっきりとした寂寥の情が、彼の顔に現れていたのである。


斎藤「…総司」

沖田「何?」

斎藤「…あんたは…その、…」

沖田「…名前をどう思ってるのかって?」


口篭った内容を言い当てられ、斎藤は思わず押し黙った。
こんな質問…自分は一体、何がしたいのだろうか。
沖田にそんな質問をして、どうしたいのだろう。

そんな斎藤の内なる葛藤をも見抜いたのか、沖田はくつくつと笑っていた。


沖田「あの子は僕の親友だよ。近藤さんとは違った意味で、大切。絶対に失いたくない人。守りたいとも思うし、あの子に背中を預けてもいいとも思う」

斎藤「……」

沖田「…けど、恋愛感情とかは全く無いよ。…って言ったら安心する?」

斎藤「…安心?」

沖田「あれ、違った?」


再び僅かに眉を寄せた斎藤。
それを見た沖田はおどけたように笑った。


沖田「一君が僕と名前の事が気になったのは、君があの子に惹かれてるから…だと思ったんだけど」

斎藤「何故そうなるのだ」


やや食い気味な返答。
沖田としては少し鎌をかけただけのつもりだったのだが、予想以上の反応が返ってきたために思わず口角を上げる。

声色や表情は変化していないものの、斎藤にしては珍しく、明らかな動揺が垣間見えたのだ。

何故ここまで来ても気づかないのだろうと沖田からすれば疑問なのであるが、断言するような真似はしない。
斎藤には剣に生きる覚悟がある。
その命を浪士組の為に使おうとしていることも。
恋路など、今の彼が望む道ではないことを、沖田はしっかりとわかっている。

…というのは建前で、本当は斎藤と名前の何とも言えない関係を見ては楽しんでいるからなのであるのだが。
斎藤がいつ自分の気持ちに気づくのか、自覚をしたらどうなるのかと、それはそれは楽しみにしながら観察をしているのである。


沖田「とにかく、僕があの子とどうにかなるとかは有り得ないから。安心していいよ」

斎藤「…言っている意味が理解できぬのだが」

沖田「ふうん。それなら、そのうちわかる時が来るんじゃない?」


「じゃ、また後でね」という言葉を残し、沖田はするりと猫のようにその場から去って行った。


斎藤「……」


残された斎藤は、沖田の去った後を暫く見つめていた。
そして静かに視線を落とせば、磨き抜かれた刀身に己の顔が映る。
刀身に浮かび上がったその顔は、やや困惑しているようにも見える。

斎藤は未だ、自分が名前の事をどう思っているのか分からなかった。
明るく元気で健気で、しかし時折溶けてしまいそうなほどの儚さを見せるあの少女。
彼女の力になりたいとは思う。
彼女の顔が歪まぬよう自分に出来ることをしたい、それは本心だ。

だがそれは、彼女が大切な仲間だからではないのか。
沖田の言うように、自分が彼女に惹かれ始めているからなのだろうか。


斎藤「…そんな筈は無い」


まるで自分に言い聞かせるような否定の言葉を呟く。
…何故なら、小さな違和感があったから。

試衛館を離れて決闘に挑み、旗本の男を斬った。
その結果罪に問われ、脱藩した斎藤は刀を置いた。
剣に生きる事を諦めたあの日々。
斎藤の心を唯一癒していたのは、脳裏に蘇る名前の笑顔だった。

そして、何度も願った。
─── もう一度、彼女に会いたいと。

そしてそれは、もう一度剣を握る決心をしても、剣という生きる意味を取り戻しても、変わることはなかったのである。


斎藤「…そんな、筈は無い」


刀を柄を強く握る。

彼女に特別な情を抱くなど、有り得ない。
自分がそんな思いを抱くなど、あるはずがないのだ。
剣に生きると決めてから、そんな事は一度も無かった。
そしてそれは、これからも変わらない。
彼女を助けたいと思うのは、ずっと会いたかったのは、彼女が大切な仲間だからだ。

刀身に映る己の困惑した顔を見ないように。
斎藤は、静かに刀を鞘に納めた ─── 。

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