銀桜録 黎明録篇 | ナノ


2

名前「…あの、一君?今いい?」


障子戸越しに声をかければ、「ああ」という短い返事が返ってきた。
何気に斎藤の部屋に入るのは初めてである。
なんだか妙に緊張してしまい、恐る恐る障子戸を開けば、斎藤は刀の手入れをしているところであった。
島原へ行くまでは少し時間があるらしい。


名前「…あっ、ごめんね!やっぱり後の方がいいかな?」

斎藤「いや、構わぬ。どうかしたのか」


斎藤が刀の手入れを怠らず、いつも丁寧に手入れをしている事は名前もよく知っている。
その時間を邪魔してしまうのは悪いかと身を引こうとした名前であったが、斎藤は名前を引き止めて刀をその場に置いた。

名前は斎藤と向き合うように座ると、彼に向かって深く頭を下げる。


名前「あの、さっきはごめん。凄く助かった」

斎藤「…あんたに謝罪されるような事はしていないが」

名前「…でも、土方さんに何か伝えてくれたんでしょう?」


名前の言葉に、斎藤は少し気まずそうに目を伏せた。

名前の推測通り、名前が島原へ行かずに済むように動いてくれたのは斎藤である。
名前の事情を知っているのは近藤と土方、井上、そして斎藤だけだ。
土方ならば上手く名前を外してくれるだろうと瞬時に判断した斎藤は、土方にこっそりと声を掛けていたのである。

斎藤から「名前を外してやってほしい」と簡潔に頼まれた土方は、やはり流石というべきか、それだけで斎藤の意図を汲み取った。
そして彼は斎藤の期待通り、名前が島原へ行かなくてもいいように取り計らってくれたというわけであった。

斎藤がこっそりと動いていたのは、名前に気を遣わせぬ為である。
名前に気づかれれば、律儀な彼女は間違いなく斎藤に頭を下げに来るという確信が斎藤にはあった。
斎藤にとっては、彼女に頭を下げられるようなことでは無いのだ。
その為、こっそりと動いていたのであったが…。

結果的には名前にバレてしまったため、思わず目を逸らしてしまったというわけである。


斎藤「…あんたの顔色が優れなかった故。体調はどうだ?」

名前「うん、それはもう大丈夫」


名前は頷くと、困ったように眉を下げた。


名前「…ごめん。私、一君に助けてもらってばっかりだ」


名前は、何度も斎藤のさり気ない行動に助けられている。
初めて出会った時、いつだったか花見で酒を勧められた時、夏祭りで迷子になった時、生死の境をさ迷った時…。
他にも数え切れないくらい、斎藤に助けられた。

…情けない、と思う。
近藤達の役に立ちたいと彼らについてきたのに、結局自分は一人で状況を切り抜けられる力量が無いのだ。

彼の傍に居られるのは嬉しい。
だが、彼に迷惑をかけることなど望んでいない。

すると、暫く黙って名前を見つめていた斎藤が静かに立ち上がった。
かと思えば斎藤は名前のすぐに目の前に跪くと、彼女の手首に手を伸ばす。
何事かと一瞬体を硬直させた名前であったが、自分の手首に触れてくる斎藤の手が酷く優しくて、途端に体の力が抜けた。


斎藤「…俺は…あんたの話を聞いた時、あんたの力になりたいと思った。昔の事を思い出させぬよう…あんたの顔が曇らぬよう、俺に出来ることをしたいと思った。…俺が勝手に行動しているだけだ、あんたが気に病む必要はない」


彼は、何故こんなにも優しいのだろう。
口調はいつも通りで少しぶっきらぼう。
しかし名前の手首を撫でる彼の手つきは、まるで割れ物を扱うかのようなものであった。

彼の蒼い瞳は、まるで夜明け前の空のよう。
太陽の光と闇夜の二つが溶け合うあの瞬間のように美しく、今にも吸い込まれてしまいそうだった。

なんだか急に恥ずかしくなって、思わず目を逸らす名前。
斎藤の方も、恐らくほぼ無意識の行動だったのだろう。
斎藤はハッと我に返ったように己の手を引っ込めて、気まずそうに視線を逸らした。


斎藤「…す、すまぬ。他意は無い」


視線を畳に向ける二人は、お互いに若干顔が赤い。
傍から見れば妙な光景である。

しかし、名前の手首に僅かに残っているのは斎藤の温もりだ。
彼女がそれを嫌に思う事など、天地がひっくり返っても無いだろう。


名前「…ううん。本当にありがとう、一君」


僅かな熱が顔に残ったまま、斎藤の顔を見上げて笑う。
斎藤は一瞬驚いたような表情になったが、すぐに小さな笑みを浮かべた。
名前を見つめる斎藤の瞳は、水平線のように穏やかであった。

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