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一方で井吹はというと、人間離れした戦いを見て、心此処に在らずといった様子で立ち尽くしていた。
白熱した試合を見て、まるで自分も戦っているかのように心臓がバクバクと暴れているのである。
そんな井吹に気づいたのは、名前であった。
名前「…あれっ、龍之介だ。おーい、龍之介ー!」
ブンブンと大きく手を振りながら、駆け寄って来る名前。
近付いてくる彼女を見て、井吹はハッと我に返る。
名前「お使いの帰り?お疲れ様!」
井吹「あ、ああ…」
名前「…?どうしたの?」
何やら言い淀む井吹を見て、名前は不思議そうに首を傾げている。
未だバクバクと波打っている井吹の心臓。
これをなんと伝えればいいのかわからず、井吹はモゴモゴと口を開く。
井吹「いや、その…あんたって、意外と凄い奴だったんだな…」
名前「えっ?」
井吹の言葉に、きょとんとする名前。
するとその後ろから「あははははっ」という笑い声が聞こえてくる。
どうやら沖田と斎藤も此方に来ていたようで、沖田は井吹の言葉に笑っていた。
沖田「でもまあ確かに、こんな細くておひたしみたいな子があんな素早い動きするとは思わないよね」
名前「…待って、おひたし!?おひたしみたいって何!?」
"おひたしみたい" とはなかなか斬新な例えだが、あまり良い意味ではないのだろう。
「私の事そんなふうに思ってたの!?」と名前は愕然としている様子である。
沖田「でもこの子、君が思ってるよりも結構凄い子なんだよ。僕もたまに一本取られるし、全員に一目置かれてるんだから」
井吹「そ、そうなのか…」
名前「えっ、何それ初めて聞いた!」
斎藤「…江戸にいた頃、土方さんもあんたの腕を褒めていた」
名前「そうなの!?なんだ、直接言ってくれればいいのに!土方さんってば照れ屋なんだから!」
沖田「あ、今の言葉、土方さんに伝えておくね」
名前「ごめんなさい言わないで下さい」
今の名前の発言が土方の耳に入れば、間違いなく土方は怒る。
稽古の時に何をされるか、想像するだけでも恐ろしい。
途端に顔色を変えて謝り倒す名前を見て、沖田は再び笑い声を上げた。
すると、ふと斎藤が何かを思い出したように口を開く。
斎藤「…話が変わるのだが…何故あんたはそのような格好をしているのだ?」
名前「えっ?」
それは、斎藤が先程から聞こうと思っていて聞きそびれていたことであった。
そう言われてみれば何故男の格好を、と井吹も疑問に思ったらしく、彼も名前に視線を向ける。
名前「うーん、この方が動きやすいし目立たないから…かな?」
沖田「言っておくけど物凄く目立ってるからね、あまりにも男装が下手すぎて」
名前「嘘!?」
沖田「寧ろなんでそれで良いと思ったのか謎なんだけど?」
どうやら名前の男装の下手さが話題になっているのは、試衛館にいた者達の間だけではないらしい。
衝撃の事実を聞き、名前は愕然とした様子である。
斎藤「…事情は分かった」
沖田「ほら、一君も絶対下手くそだって思ってるよ」
名前「えっ、一君も…?」
斎藤「…どうだろうな」
名前「絶対思ってるよこれ」
名前はしょんぼりと肩を落とした。
そもそも名前の愛らしい顔は男装には不向きなのだが、当の本人は全く気づいていない様子である。
そんな彼女を見て、沖田はくつくつと笑った。
沖田「だけどさ、浪士組に参加するって近藤さん達を説得しに来た名前、それはもう凄かったんだよ。一君にも見せたかったなぁ」
斎藤「…凄かった、とは?」
沖田「この子ね、僕らの目の前で髪を切ったんだ」
斎藤「!?」
井吹「髪を!!?」
名前の髪をつんつんと触りながら沖田が放った言葉を聞いて、斎藤は切れ長の目を見開き、井吹も衝撃のあまり思わず声を上げた。
確かによく見てみれば、彼女の結い上げられた髪の毛先は不自然な程に揃っている。
沖田「それで、『これが自分の覚悟の証だ』って切った髪を差し出してさ。あの時の君、なかなか格好良かったよ」
名前「い、いやー、お恥ずかしい…」
あはは、と眉を下げて困ったように笑う名前。
斎藤は、そんな名前を見て小さく溜息を吐いた。
斎藤「…あんたが相当の覚悟を決めて此処にいるのはよく分かった。だが、もう少し自分の体を大事にしろ」
名前「ご、ごめん…でも多分、あの時ちゃんと私の覚悟を分かってもらえていなかったら、こうして此処にはいられなかっただろうし…」
斎藤「…そういう意味ではない」
名前「え、違うの?」
斎藤の言いたい事がよく分かっていないようで、名前は小さく首を傾げる。
そんな彼女に、沖田が口添えをした。
沖田「一君は君のことを心配してるんだよ、いつか突拍子もない事をして大怪我するんじゃないかってさ。君のことが心配で夜も眠れないんだって」
斎藤「……夜は眠れている」
沖田「(あ、そこを否定するんだね)」
少々的外れな斎藤の指摘に、沖田は思わず吹き出しそうになる。
その一方で、名前は納得したように頷いていた。
名前「そっか、そういう事か!ごめんね、これからは皆に心配掛けないように気を付けるよ」
眉を下げて謝罪する名前。
こういう彼女の素直なところは尊敬すべき点であり、沖田や斎藤が好きな彼女の長所である。
すると、不意に沖田の視線が井吹に移った。
井吹「…な、なんだよ」
沖田「そういえば、僕まだ打ち足りないんだよね。君、相手してくれない?」
井吹「絶対に嫌だ!」
沖田の誘いに井吹は即答した。
沖田と勝負したいと思える人物など、試衛館の者達くらいであろう。
沖田の手加減の無さはかなり有名なのである。
沖田「別に良いじゃない、さすがに殺したりはしないし」
井吹「な、なんで木刀の打ち合いで殺す殺さないが出てくるんだよ!」
沖田「君だって剣術くらいできるでしょ、腰に刀差してるんだし。何、それは飾りなわけ?」
井吹「それはっ…お、俺は、剣術はやらないんだよ!!」
沖田「ふうん。何、怖いの?」
名前「ちょ、ちょっと総ちゃん ─── 」
沖田の挑発癖が出てきたので、見かねた名前が止めに入ろうとする。
しかしそんな彼女を手で制して前に出たのは斎藤であった。
斎藤「総司、その辺にしておけ。彼は、本気で嫌がっているようだ」
名前は少し驚いて斎藤の背中を見た。
彼が井吹に助け舟を出したのが意外だったのである。
沖田「えー、つまんないなぁ。…あ、そうだ。僕、勇坊達と一緒に遊ぶ約束してたんだった」
名前「えっ、そうだったの?行ってあげなよ、待ってると思うよ」
沖田「そうだね。じゃあまた後でね、名前、一君」
斎藤「ああ」
名前「うん、後でね」
勇坊というのは八木邸のご子息である。
沖田は子供に懐かれる体質のようで、加えて彼自身も子供好きらしく、八木邸のご子息や近所の子供とすぐに仲良くなっていた。
『遊んであげる』ではなく『一緒に遊ぶ』と言っているところが何とも彼らしい。
名前がひらひらと手を振れば、沖田も同じように手を振りながらその場を去って行った。
そしてその場に残されたのは、名前と斎藤と井吹である。
井吹「…礼は、言わないからな」
フイッと視線を背け、斎藤に向かってぶっきらぼうに言い放つ井吹。
そんな言い方しなくても、と思ってしまう名前であったが、斎藤は全く気にしていない様子で頷いた。
斎藤「…構わん。先程の借りを返しただけだからな」
井吹「…借り?」
井吹が首を傾げると、斎藤は静かに口を開く。
斎藤「…土方さんに取り次いでくれただろう」
井吹「…たったそれだけの事に?」
井吹は、斎藤の真面目な性格に驚いているようだった。
名前は内心「相変わらず真面目で律儀だな」と思いながら、小さく笑みを浮かべている。
そんな斎藤に些か興味を持ったのか、ふと思い出したように井吹は口を開く。
井吹「…なあ。どうしてあんたはあの時八木邸の前で佇んでいたんだ?」
井吹の問いに、斎藤は静かに目を伏せる。
蒼い瞳が映すのは、彼の右腰に差してある刀であった。
斎藤「…覚悟を、決めていたのだ。再び、この刀を使う覚悟を」
井吹「覚悟…?」
何やら意味深な言葉に井吹は首を傾げるが、斎藤がそれ以上を語ることは無かった。
一方で名前は、斎藤の言葉が気にかかっていた。
斎藤は、"再びこの刀を使う覚悟" と言っていた。
まるで、一度刀を手放したような言い方であった。
名前「…私達も、そろそろ戻ろうか。龍之介も、芹沢さんの所にお酒を届けた方がいいんじゃない?」
井吹「…ああ、そうするよ」
名前は、何も聞かなかった。
きっと彼が突然行方を晦ました事に関係があるのだろうと、本能的に察していたからである。
同時に、それが斎藤にとって辛く苦しいものであったであろうことも。
名前は静かに目を伏せると、先を歩く井吹の後を追うように、斎藤と共に八木邸へと戻ったのであった。
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