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時間の進みがこれ程残酷に感じたことはない、と名前は思う。
そんな彼女を置き去りにして、その時は刻一刻と迫っていた ─── 。
島原から戻って来て部屋に入った芹沢を、名前は土方達と共に息を潜めて監視する。
土砂降りの為に多少の足音や話し声がかき消されるのは幸いだった。
芹沢の部屋の灯りが消えて完全に寝入るまで待ち、足音を立てないように部屋へ近づく。
そして土方の合図で障子戸を開け、名前達は勢い良く部屋の中へ突入した。
芹沢「……漸く来たか。遅かったな」
稲光が、芹沢の不敵な笑みを照らし出す。
寝入ったと思っていた芹沢は、抜き身の刀を構えて待ち構えていたのである。
恐らく今晩名前達が踏み入ってくる事に、気づいていたのだろう。
そして、部屋の隅 ─── 芹沢の後ろには、お梅がいた。
ドクリと名前の心臓が飛び跳ねる。
……お梅が逃げる事を拒んだ時点で、こうなる事はわかっていた。
友人である名前が芹沢と自分を殺しに来たのを見て、お梅は一体どんな表情を浮かべるのか。
名前は、お梅の顔を見ることが出来なかった。
彼女の薄紫色の瞳を視界に入れる前に、名前は目を逸らしていた。
そして、見据えるのは芹沢である。
静かに刀を構えた土方に続き、名前達も抜刀した。
土方「あんたはやり過ぎたんだ、芹沢さん。新選組の為に死んでもらう」
芹沢「ふっ、貴様らがこの俺を殺すだと?面白い冗談だ」
土方「冗談でも何でもねえ。伊達や酔狂でこんな物を抜けるはずがねえだろ。新選組の為ならどんな罪でも被って、地獄の鬼にでもなってやるさ!」
土方の鋭い眼光に睨まれ、そして名前達四人に囲まれても、芹沢は一切動じなかった。
それどころか、余裕そうな笑みを浮かべるばかりである。
芹沢「そうか。本当に鬼になれると、そう抜かすのだな。では貴様らの覚悟の程がどの程度のものか……確かめさせてもらうぞ!!」
そう言って芹沢が懐から取り出したのは、見覚えのある小瓶。
中で揺れる緋色の液体は、
沖田「なっ、……!?」
山南「変若水……!?」
芹沢は躊躇う事もなく、小瓶を仰ぐ。
その手から小瓶が落ちるのとほぼ同時に、
芹沢「ぐっ、うぐあああーーーっ!!!」
断末魔のような叫び声が響き渡った。
芹沢「……くくく……ふははははっ!!!」
土方「ちっ……」
沖田「また面倒な事になりますよ……!」
闇夜で光る紅の瞳に、白い髪。
そこには、羅刹と化した芹沢が立っていた。
芹沢「……かかって来んのか?では、此方から行かせてもらう!!」
土方「ぐっ……!!」
名前「土方さんっ!!」
振り下ろされるのは、今まで経験してきたものよりも数百倍重いであろう刀身。
土方が斬撃を受け止めるが、力の差が大きすぎるようで彼の体は簡単に庭へと吹っ飛ばされた。
名前の悲鳴にも近い声が響く中、芹沢は沖田と山南に狙いを定める。
芹沢は山南との鍔迫り合いを脅威的な力で跳ね除け、さらには沖田の腹を蹴飛ばし、まるで人形のように簡単に二人は吹っ飛ばされた。
壁に叩き付けられた二人は、そのままズルズルと床に倒れ込んでしまう。
沖田「う、ぐっ……名前っ、!」
あっという間に、芹沢と対峙するのは名前のみとなる。
呻き声に混じりながら聞こえた沖田の声は、名前の身を案ずるものだった。
一対一で、名前が芹沢に敵うはずがない。
ましてや、羅刹となった芹沢など。
だが、戦わないわけにはいかなかった。
全ては、近藤達の為に。
名前「っ、はああああっ!!!」
芹沢相手に普段の反撃主体の攻撃では不利だ。
そう考えた名前は、芹沢に向かって斬りかかる。
そして芹沢が動いたのも、名前とほぼ同時であった。
名前が振り下ろした刀を、芹沢はいとも簡単に躱してしまう。
その反撃に、芹沢の刀がまるで空間を切り裂くように一太刀を見舞った。
間一髪で飛び退いた名前だが、床に敷かれていた布団に足を取られ、体勢を崩してしまう。
その隙を突かれた。
名前「 ─── っ!?がっ、……!!!」
一瞬にして芹沢との距離が縮まる。
動体視力に自信のある名前すらも、目で追えない程の速さであった。
逃げる間もなく芹沢の大きな左手が名前の首を掴み上げ、名前の体は宙に浮いた。
名前「うっ、ぐっ……はっ……!!」
沖田「名前っ、」
土方「名前っ!!」
まずい、息が出来ない。
芹沢の手を引き剥がそうにも、びくともしなかった。
首を締め上げられて目の前がチカチカするのと同時に、沖田と土方が名前を呼ぶ声が聞こえた。
そして三人が芹沢に斬りかかっていくのがわかった。
しかし芹沢はもう片方の手で、簡単に土方達を振り払ってしまう。
ただ振り払われただけのように見えてもその力は人の数十倍は強く、三人は部屋の外まで吹き飛ばされてしまったのである。
名前の視界が霞み始めた。
全身から力が抜けていく感覚。
時間の進みが酷く遅く感じる。
自分はここで死ぬのか、と己の死を悟った名前は冷静であった。
霞む視界で、芹沢が不敵な笑みを浮かべる。
芹沢「……それで終いか?妹よ」
今にも途切れそうな意識の中で、芹沢の声が頭に響いた。
芹沢「散っても尚、匂いを残す梅のように」
一瞬諦めそうになった、この命。
止まりかけていた思考が、再び息を吹き返す。
─── 死ねない。
まだ、死ねない。
芹沢「貴様の生き様を示せ、妹」
名前「 ─── っ、!!」
自分にはまだ、やるべき事がある。
名前「う、ぐっ……!!」
その瞬間。
右手にありったけの力を込めて、刀を芹沢の左肩に突き刺した。
ドスッという鈍い音共に、芹沢から呻き声が上がる。
芹沢「ぐあっ、……!!」
一瞬緩んだ芹沢の手。
その隙を突いて空を蹴ってもがけば、名前の体はドサリと畳の上に落ちた。
名前「が、はっ……げほっ、げほっ…!!」
無我夢中で空気を吸い込み、忘れていた分の呼吸を取り返すように息をする。
酷い頭痛と息苦しさに顔を顰めながらも脇差を引き抜き、名前は芹沢を睨み付けた。
芹沢「……それでいい」
名前の未だ霞む視界に映る、芹沢の顔。
闇夜の中で赤い瞳がギラリと鋭く光って、
─── 芹沢は、淡く微笑んだ。
芹沢「……楽に、逝かせてやってくれ」
それは、幻聴などではない。
初めて見る彼の微笑みも、幻覚ではなかった。
芹沢は己の肩に刺さっていた名前の刀を引き抜き、その場に投げ捨てた。
そして名前にとどめを刺すことなく、土方達の元へと立ち向かっていく。
" 芹沢「……楽に、逝かせてやってくれ」 "
外で芹沢が土方達と刀を交える様子を目にしながら、名前の脳内ではその言葉が木霊した。
一体どういう意味かと働かない頭を無理やり回転させて、
─── 全てを理解した。
名前「……せ、りざわ、さん……」
"楽に逝かせてやってほしい。"
それは、芹沢の最後の頼み。
お梅の事を指しているのだと、気づいてしまった。
芹沢は、名前にお梅を託したのだと。
芹沢は恐らく、自分が殺される事を知っていた。
知っていたから、あんな振る舞いをしていた。
土方が、自分の代わりとなる鬼となるように。
鬼というものが何なのか、その身を持って示していたのだ。
そして芹沢は、お梅を逃がさなかった。
芹沢は、お梅と共に死ぬつもりでこの部屋にいた。
芹沢も、己が最後に行く道を選んだのだ。
武士として散り、死んでも尚お梅といる道を……。
名前は、ゆっくりと立ち上がる。
その右手には、刀。
名前の瞳が捉えたのは、
─── お梅だった。
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