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─── 文久三年 九月十六日。
朝から土砂降りの雨だった。
まるで今日これから起こることを見抜いているような、不穏な天気だった。
そしてそれは、夕七つ(15時)頃の事である。
名前「……どのようなご要件でしょう」
折り目正しく座る名前の目の前にいる人物。
それは、浴びるように酒を飲む芹沢であった。
名前は、芹沢に呼び出されたのである。
どうやら土方達には知られたくない話があるらしく、平間が八木邸へこっそりと名前を呼びに来た。
何故自分が、と不審に思わずにはいられなかったが、行かないわけにはいかなかった。
暗殺の決行は今夜だ。
名前が少しでも不審な挙動を見せれば計画が全てバレてしまう。
近藤達の為にも、それは何としてでも避けなければならない事であった。
無機質な名前の声が響く。
芹沢は名前を見てフンと鼻を鳴らす。
芹沢「……貴様と話すのは大和屋の一件以来か、妹」
……あれを会話と呼べるのかは謎であるが。
正直、襤褸が出ぬうちに早く戻りたかった。
芹沢の瞳は何もかも見透かしているようで、怖いのである。
名前はなるべく感情を出さぬように、「そうですね」と相槌を打つ。
芹沢「……フン。相も変わらず、愛想も色気も無い女だな」
普段の名前ならば、ムッと顔を顰めたところだろう。
しかし極度の緊張が名前の体を律しており、表情が変わることはなかった。
すると ─── 。
一瞬にして、芹沢の瞳が鋭く光った。
芹沢「……貴様に頼みがある。聞け」
名前は、思わず眉根を寄せる。
何故自分に、と。
しかし、まるで睨みつけるように名前を見る芹沢の視線からはビリビリと威厳と圧が伝わってきて、名前は不審に思いながらも無言で頷いた。
それを確認した芹沢は懐から何かを取り出し、名前へ差し出す。
それは、蓬色の帛紗であった。
勿論その中には金子が包まれている。
かなりの大金のようだ。
芹沢「……お梅と顔馴染みだそうだな。それを、お梅に渡せ。そしてもう此処には来るなと伝えろ」
名前「……えっ?」
芹沢「あの女には先程酒を買いに行かせた、今追えば間に合うだろう」
一体何を言っているんだ、この人は。
理解が出来ず、名前は困惑した表情を浮かべていた。
芹沢「……俺があの女を追い出すのが、それ程不思議か」
ようやく感情を露にした名前を見て、芹沢は僅かに口角を上げる。
動揺した名前は肯定も否定も出来ず、ただ無言を貫いた。
芹沢「……近藤名前」
初めて、名を呼ばれた。
芹沢「貴様は何故剣を握る?」
鋭い視線が名前を射抜く。
何かを見極めているような目立った。
名前「私は……兄様達の夢を叶えたい。その為に、私の剣で新選組を守りたいのです」
一瞬、近藤の名前を出したものか迷った。
しかし嘘を付いたところで芹沢には通用しない。
寧ろ不審に思われてしまうだろう。
そう思った名前は、正直に述べた。
芹沢「……成程」
芹沢は再び酒を仰ぐ。
そして、鉄扇を名前に向けた。
芹沢「目的を見失うな。成すべき事を成せ、近藤名前」
何故芹沢が、突然そんな言葉を残したのか。
この時の名前には知る由もなかった。
芹沢の言動が理解出来ず、名前はただ頭を下げることしか出来なかったのである。
部屋を出た名前は、芹沢からの頼みを果たすべくお梅を追った。
名前からすれば、果たす義理など無いはずだった。
今晩殺す相手なのだから。
しかしこれは、お梅を逃がす良い機会だという事に気づいたのである。
土方は、「部屋にいた場合は殺せ」と言っていた。
現場を見られるのが拙いのならば、見られなければいい。
巻き込む前に逃がせばいいのだ。
雨の中を走っていれば、見覚えのある背中を見つける。
名前「お梅さんっ!!」
梅「……あら、名前さん!こんにちは。どうなさいまして?えらい焦っているようどすけど……」
呼び止めれば、いつもと変わらぬ優しい声と笑顔が返ってきた。
これが最後の別れになるかもしれないと思うと、胸が苦しい。
名前は芹沢から預かった帛紗を取り出し、お梅の手に握らせる。
梅「これは……?」
金子だと分かるなり、お梅は僅かに眉を寄せた。
名前「……芹沢さんから伝言です。もう此処へは来るな、と」
梅「え……?」
名前「お梅さん、私からもお願いします。どうか、理由は聞かずに此処から逃げてください。時間がありません、急いでなるべく遠くへ逃げてください」
お梅の顔も見ずにまくし立てて、頭を下げる。
お梅を殺したくない。
何処か、遠くの土地で。
今まで辛い思いをした分、幸せに生きてほしかった。
梅「……それは、できまへん」
名前「え……?」
雨と共に降ってきた声に、名前は思わず顔を上げる。
お梅は、静かに笑っていた。
梅「……うちにはもう、彼処しかないんどす。彼処にいたいんどす」
名前「お梅さん、」
梅「どうかお願いします、名前さん」
懇願するように名前はお梅の手を握る。
しかし今度は、お梅が願いを請う番であった。
梅「あの人の傍にいる事がどういう事か、うちもわかってます。それでも……うちにはもう、あの人しかいいひんのや。あの人と一緒に生きて、あの人と一緒に死にたいんどす。せやから……あの人の傍に、居させてください」
ああ、もしかしたらこの人は。
新選組と共に過ごす中で、芹沢がどのような存在なのかを知り、そして芹沢の死が迫っている事を薄々と察しているのかもしれない。
それでも尚、最後の時まで共に居たいと願う程に ─── 命懸けの恋を、しているのだ。
名前「……分かりました」
覚悟を決めたお梅を、これ以上引き止めることなど出来なかった。
恋い慕う相手と引き離すようなことは、名前には出来なかった。
梅「おおきに、名前さん。このお金は、うちの方からあの人に返しておきますから」
名前「……はい」
お梅の手が、名前から離れた。
まるで名前とお梅の間を引き裂くように、雨が降り注いでいた。
梅「最近お忙しいそうどすなぁ。落ち着いたら、また今度一緒にお茶しましょうね」
名前「……っ、はい……」
声が、震えた。
"また今度" は、もう存在しないのだと。
梅「ほな、また」
お梅は淡い微笑みを浮かべると、ゆったりとした足取りでその場を去って行く。
その背中を見送る名前は、雨に溶けてしまいそうな程に儚かった。
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